ラジオ放送「東本願寺の時間」

大桑 齊(石川県 善福寺)
第六回 僧俗分離と弾圧に抗しての本願寺別立音声を聞く

 おはようございます。これまで、教如上人が本願寺を別に開かねばならなかった理由や理念を申してきましたが、最後に、その理念を実現するために、東本願寺が別に開かれた経緯を、お話いたします。
 一般に、徳川家康策謀説がいわれています。本願寺教団の大きな勢力を分裂させるために、教如上人に別の本願寺を開かせた、これが東本願寺だという説です。このような俗論が長らくはびこってきました。そうではなく、教如上人に独自の理念と強い信念があり、それが本願寺を別に開くことの根底となっていたことが、前回までのお話でおわかりいただけたかと思います。
 理念実現のために、教如上人は、十字名号や聖典文言掛軸を下して、門徒の人びとに呼びかけました。それに応えた門徒衆は、地域信仰共同体を守り通すことを念願していました。ところがそれは、秀吉政権にとっては打ち破らねばならないものだったのです。
 時は戦国時代です。村々では、農業を営みながら刀、槍、鉄砲で武装し、農民であり武士でもあって、地侍と呼ばれる有力者がいました。真宗地域では、彼等がお念仏の集会所である道場をも営んでいましたから、農民・武士・僧侶が一体の有様でした。この状態を打ち破り、地侍に農業を辞めさせて城下町に住まわせ、武士という身分で常備軍団に組織したのが信長であり、秀吉でした。秀吉が出した刀狩令で、百姓は農具をもって耕作に専念さえすれば、この世でも来世でも安楽を保証すると宣言したことは有名です。農民と武士の分離だけではなく、それらとは別に坊主という身分を設け、道場を営む農民や地侍を坊主身分に編成しようとしました。僧俗分離です。こうして秀吉政権は兵農・僧俗分離策を展開しましたから、村々の地域信仰共同体はずたずたに分断されることになったのです。
 秀吉は、教如上人を、「信長様の大敵」と呼び、退隠に追い込み、上人を支持する門徒衆に弾圧を加えました。加賀能登越中の大名でした前田利家・利長親子に命じて、教如上人に荷担する者は成敗すると布告させました。それでも従わない者が後を絶たなかったので、慶長二年には越中で、教如派の首謀者二人を捕らえて打ち首にし、獄門にさらしたのです。教如上人に従うことは命がけだったのです。富山や金沢では、数百人の町人門徒が、教如上人に従わないという誓約書に署名させられました。教如上人もその門徒衆も、時代・権力への反逆者だったのです。
 秀吉亡き後も、石田三成などが教如上人を目の敵にしました。教如上人は三成に対抗する家康への接近を深め、関が原合戦の直前に家康を見舞いに関東へ下られました。その帰りに石田三成に命を狙われました。美濃の門徒衆が命を捨てて教如上人を救い出しまた。関が原の合戦の後に家康は、「諸国の末寺門徒勝手次第に教如上人へ帰参あるべし、領主・地頭たりとも異義あるべからず」と命じて、教如派への弾圧を禁止しました。さらには現在の京都烏丸の地を寄進しましたので、教如上人はここに関東から親鸞聖人ゆかりのご真影を迎えて、本願寺を別に開くことができたのです。東山に祀られて豊国大明神となった秀吉、その真西に堀川本願寺があります、このライン上に教如上人の東本願寺が割り込む形になりました。家康の狙いは、教如上人の東本願寺を、幕府に取り込むことにありました。
 幕府が成立し身分制の江戸時代が到来しました。村々の道場は寺院となり、道場の主は専業僧侶となって、その専業僧侶の身分集団が東本願寺派という宗派となったのです。地域信仰共同体は内から崩されてしまい、教如上人の理念も、専業僧侶集団東本願寺派では受け継がれなくなります。でも門徒衆は、地域の信仰拠点として村々のお寺を守り続けることで、教如上人の理念は地下水脈となって流れ続けました。昭和になって、大谷派は信仰運動として同朋会運動を起こしますが、それは、地域信仰共同体の地下水脈が、そして教如上人の慈悲の教団の理念が、噴出したのでした。大谷派なる教団は教如上人の理念によって成り立っていることを、改めて確認したいものです。

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