ラジオ放送「東本願寺の時間」

犬飼 祐三子(愛知県 正林寺)
第三回 出遇い音声を聞く

 私達は日ごろあたり前のように人と接しています。その中でも近く関わっているのが家族です。
 最近、気になることを耳にします。それは「うちは子どもと友達のように仲がいいの。」という言葉です。仲が良いことはとても良いことです。けれどもそれはある意味、本当に大切なことを伝えていらっしゃるのかということを疑問に感じるのです。
 先日も小学四年生の女の子のお母さんが「子どものケータイを見ていたら、“うざい・死ね”とあってうちの子も言っているんじゃないかと娘に聞きました。“していない”って言ってましたが、今ってこわいですね」とお話ししてくださいました。人を介して聞いても、とても悲しい言葉がとびかっているようです。受けた娘さんも心に傷をおいますし、そのメールを発信した子も本当は心に傷をおっているのでは…と心配になります。
 “友達のように仲が良い”という親子さんのお話の中身は、ファッションや恋愛など、お友達とあまり変わらない内容で、お母さんはあまり生活についてうるさくいわれないという印象を受けます。もしも親らしくいろんなことを注意したら子どもの方が離れていってしまうのでは、と思うと本当は言いたくても言えないと思っておられる方もいらっしゃるようですが、中には“しつけ”は学校にしてもらうのが当然という方もおられるようです。
 ですから、表面的には仲が良くても、悩んだり苦しんだりした時に受けとめてくれる手を求めても、話すことができない関係であったりします。軽い相談はできても、思い悩む心の奥底までさらすことはできない、親にいい子だと思われていたら、そんな自分がこんなことを思っていることを知られたくない、とお話しされないのでしょう。多分その親御さんの世代もそうした受けとめ手を持っていなかったのでは、と感じるのです。
 お互いによいところだけを見せる関係はとても楽ですが、そういった関係では人間として本当に“出遇う”ことはできないのではないでしょうか。私も親の一人として息子に対する時、何度も何度もそのことを問いかけております。
 日本人はよく事なかれ主義だといわれます。本当はとても深い関係があるのに、それにふたをして隠してしまうのです。そしてそれに気付いていないフリをする。前に何かで読んだのですが、隠すことで問題というものがより深く深刻になると書かれていました。本当にその通りだと思います。
 真宗の教えを聞く門徒は、昔から教えに自分を確かめることをしてきました。人間の本質は人間が自分で判断することができないのです。その時に、私に人間とはこういうものだと教えてくださるのが仏さまの智慧です。仏法を聞いて、そのことを皆で話し合う場が開かれていました。そこでは自分勝手に聞いていた教えを人と話し合うことで、その教えの本当の意味を見い出していきます。
 私自身も思ったことですが、もっと早く正しく教えをいただいていたら、私の生き方は違っていたのではないかと思うことがあります。あるご門徒さんは、この方は男性ですが、「もっと早くに教えを聞いていたら、子どもに対する接し方が違ったと思う。もっと早く出遇いたかった、“しまった”と思います。」と話してくださいました。
 教えの前では親と子という区別なく本当の意味で“一人(いちにん)”という平等の存在です。それは、向かっているのが対親、対子ではなく、必ず仏様の方に向かうからです。
 昔から、真宗の教えを聞く門徒の家は、朝夕のお勤めが大切なことであると伝えられてきました。それは向かいあえば家族の中ではけんかが起きますが、家の中心が仏様ですので、自分の悪いところを認めやすいのではないでしょうか。今は大切な中心があることを忘れて好き勝手を言い、煩悩いっぱいの生活をしています。
 自分の思いを中心におけば人と出遇うことはありません。仏様を中心にする生活で、新たにご家族と出遇っていただきたいものです。

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