ラジオ放送「東本願寺の時間」

五辻 文昭/岐阜県 本浄寺
第一回 今、何故教えを聞くのか音声を聞く

 ラジオの前でこの放送を聞いていて下さっているのは、どんな顔をされた方々でしょうか。夜間の仕事を終えて帰宅途中の人、早朝出勤の車の中の人、ベッドに臥せっておられるお年寄り、朝の食事を準備中の主婦、ひょっとしたら受験生の方もおられるのかも知れないと、そんな思いをめぐらせながら、今回「現代と親鸞」というテーマの基にお話しさせて頂きます。
いうまでもなく、親鸞聖人が生きられた八百年前の時代が、親鸞聖人にとっての現代であったように、八百年後の今日を生きております私たちの時代も、私たちにとっての現代でありますが、同じ現代といっても、その時代状況、生活環境は大きく異なっております。私たちが生きている今の日本は、科学技術の進歩発展により、八百年前の時代とは比較にならないほどの物の豊かさ、快適さ、便利さがもたらされ、全体的には一見いかにも充ち足りた環境の中にあるかように思われます。しかし目を世界に向ければ、今も貧困や病に喘ぎ、あるいは他国との戦争、同じく国の中での民族紛争等の戦火に逃げ惑って、生きていくことが容易でない多くの国があります。また日本でも、かならずしも全ての人が物の豊かさ、快適さ、便利さの中にあるわけではありません。
いずれにしましても、八百年前に生きられた親鸞聖人の時代とは大いに異なる環境にある私たちが、今親鸞聖人の教えを聞く意味はどこにあるのかを、初めに確かめておきたいと思います。
確かに、生きる生活環境は著しく変わりましたが、そこに生きている人間の生き方そのものは、それほど変わったといえるのでしょうか。
現代社会は、その表面に現れた華やかさや明るさとは裏腹に、実に深刻な問題を、様々に抱えています。高度経済成長の時には、一億総中流などといわれていましたが、今では貧富の差が拡大する一方の格差社会、あるいは人と人との繋がりが益々希薄化していく無縁社会といわれるような世にあって、人々の苦悩は尽きないように思われます。
人間の知恵の進歩によって、そうした問題を解決できるが如く取り組んでいますが、どんなに努力しても解決不可能としかいいようのない難問が、後から後から起こってまいります。当然そこに生きる私たち一人ひとりも、大なり小なり色々な問題に突き当たり、苦しんだり悩んだり、あるいは未来への不安を抱えながら、文字どおり四苦八苦して生きております。
とりわけ個人の能力によりその人の価値が決められてしまうような現代社会にあって、私たちは他人と比較することで起こる優劣の心に縛られ苦悩します。しかも、そうした苦悩や不安の出所がどこにあるかを知りません。そのため、苦悩や不安の原因があたかも他にあるが如く、責任転嫁し、怨んだり憎んだり腹を立てたりで、いよいよ問題を拗らせるような生き方に陥っているのでありましょう。
「人生苦なり」とおっしゃったお釈迦さまは、その苦悩を徹底して凝視し、その苦悩の根本原因を問い続けることで、苦悩を超えて生きる道を諦らかにされました。
親鸞聖人はその教えに基づき、自分の力で苦悩の原因を諦らかにすることのできないものが、光となってこの身を照らし、苦悩の原因が自らの内にあることを知らせる用らきとしての、如来の本願に目覚められました。そして、時代、民族を超えてすべてのものが根源的に救われる本願の仏道を、浄土の真宗として顕かにして下さったのです。
様々な問題を抱え苦悩する私たちこそ、今、心静かに親鸞聖人の教えに耳を傾けることが求められているのではないでしょうか。

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