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正信偈の教え-みんなの偈-

生きる依り処

【原文】
帰 命 無 量 寿 如 来
南 無 不 可 思 議 光

【読み方】
無量寿如来むりょうじゅにょらい帰命きみょうし、
不可思議光ふかしぎこう南無なむしたてまつる。


 「帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい」。この句から「正信偈」は始まります。
 この句と、次の「南無不可思議光なむふかしぎこう」の二句は、「帰敬ききょう」といわれているところです。阿弥陀如来に順い、阿弥陀如来を敬うという、親鸞聖人のお心が述べられている部分です。聖人は、「正信偈」を作って、仏の恩徳おんどく讃嘆さんだんし、仏の教えを承け伝えられた七高僧の恩徳を讃えようとされるのですが、それに先だって、阿弥陀如来へのご自身の信仰を表明されているわけです。
 「帰命」という言葉と、次の句の「南無」とは同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉を中国の言葉に訳したものです。ご承知の通り、仏教はインドに起こりましたので、お経はすべて、インドのサンスクリット語(梵語ぼんごともいいます)という言葉によって中国に伝えられました。そしてこれが中国語に翻訳されたのですが、あるときは「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳し、またあるときは、意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えて、「南無」という字を当てはめたのです。どちらも、「依り処として、敬い信じて順います」というほどの気持ちを表わしているのです。ここでは、一つの信順の思いを二つの言葉に分けて表現してあるわけです。
 また、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀仏のことです。「如来」の「如」は「真実」という意味です。「真実」を覚られたのが仏ですが、仏は覚りに留まることなく、「真実」に気づかない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださっているのです。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方というのです。言い方を換えると、姿や形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、私たちの日常の生活を包んでいる、その「はたらき」を、理屈にたよろうとする私たちにもわかるように「如来」という言い方で表わしてあるのです。
 「無量寿」とは、量のない寿命ということです。つまり、数量と関係のない寿命、始めもなく、終わりもない寿命です。
 『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経には、阿弥陀仏がまだ仏に成られる前のことが説かれています。そのときは、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられたのですが、この菩薩は、仏に成る前に四十八の願いを起こされました。そしてその願いがすべて実現したので、阿弥陀仏に成られたと説かれているのです。その四十八願の第十三の願は「寿命無量の願」といわれるもので、「私が仏に成るとしても、寿命に限量があるならば、私は仏には成らない」という誓願せいがんであったのです(聖典17頁)。その誓願が成し遂げられて仏に成られた阿弥陀仏の寿命は無量なのです。過去と現在と未来にわたって、いつも悩み苦しむ人びとがいます。それらの人びとをすべて救いたいと願われる阿弥陀仏は、寿命が無量なのです。そのように時間を越えてはたらく阿弥陀仏の限りない慈悲が、いま私たちにはたらいていると教えられているわけです。
 「不可思議光」の「光」は、阿弥陀仏の智慧ちえのかがやき、何ものをも照らし出す智慧の「はたらき」をいいます。「思議」とは、心に思ったり、言葉で話したりすることですが、それが「不可」(できない)とされているのです。私たちがどのように思考を尽くそうとも、また言葉をどのように尽くそうとも、それによっては捉え切れない、それらを越えた智慧のはたらきが「不可思議光」といわれているわけです。『大無量寿経』の四十八願の第十二願が「光明こうみょう無量の願」といわれていますが、「私が仏に成るとしても、光明に限量があって、あらゆる世界を照らし出さないのであれば、私は仏には成らない」と誓われたのです(聖典17頁)。その誓いが実現したわけですが、それは、阿弥陀仏の智慧の「はたらき」が、空間の限度を越えたものであることを表わしているのです。

九州大谷短期大学長 古田和弘

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