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竹橋 太(北海道教区 法圓寺副住職)
第1話 自力のかたち その1 [2006.3.]音声を聞く
他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおのはからうこころなり。このゆえに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。

おはようございます。ただいまの言葉は宗祖親鸞聖人、親鸞さまの『尊号真像銘文』という御著作のなかのお言葉です。尊号というのは、ご本尊である南無阿弥陀仏の名号のこと、また真像というのは、親鸞さまが跡を慕った菩薩と呼ばれる方々、先輩の僧侶の方々の絵像、つまり絵に書かれたお姿のことです。「銘文」というのは、それらの御軸や絵像に親鸞さまがそこにふさわしいと考えて書き入れた言葉のことです。この『尊号真像銘文』という御著作は、その言葉を集め、さらにその解説を親鸞さまがされているものです。ただいま上げた文章は、この『尊号真像銘文』のなかで、実は、親鸞さまがみずからの絵像に書き入れられた「正信偈」の文章、その解説の最後の言葉です。自らの絵像に書き入れた言葉の解説として、本師聖人つまり、法然さまからいただいた言葉が引用されているわけです。たいへん大切な言葉であるということになります。その内容も[他力とは何か]ということと同時に、[自力とは何か]が示されているのです。さて、その意味はこのようなことです。

「言葉で言いあらわせるもの」たとえば「私」や「あなた」、「あみださま」、「すくい」などと言い表されているものはない、ということが他力が示す大切な意味である、と師である法然さまがおっしゃっていらっしゃいました。また、その「言葉で言いあらわせるもの」というのは、念仏の行者がそれぞれに思い計らう分別のこころなのです。ですから、それぞれが思い計らう分別の心をもっているということを自力というのです。よくよくこの自力のかたちを心得なさいということでした。

たいへん奇妙なことが書かれているように思われます。「分別の心」ということはわかるのですが、「言葉で言いあらわされているものがない」ということが、一体、何を意味しているのかがわかりにくいのです。しかし、ここに説かれているのは、実は仏教の基本中の基本、縁起、つまりすべてのものは、さまざまなご縁によって成り立っており、何らの実体的な存在はないということを意味しています。他力とは分別されないものであるから、わたしたちの分別を破り、わたしたちが縁起的存在である、つまり「無我」であるということ、それを指し示す力であるということです。
ところが、わたしたちは、実は、この「わたしたち」という言葉で示されるものが存在する、このお話を聞いて理解しようとしている「わたし」がいる、ということがまさに自力のあり方だというのです。わたしが教えを好きなように聞いてしまう、というような簡単な話ではないのです。考えるわたしがいるということ、そのことが、自力、つまり迷いである、ということなのです。
そんなことを言われてしまったら、一体どうしたらいいのか、そういう疑問がわいてくると思います。しかしそれは、どうにかできると思っているからです。その心こそが、自力なのです。ですから、実は、どうしようもないのです。それだからこそ親鸞さまは「悪人」とおっしゃったのです。「悪人」という言葉が「救いの言葉」であるということの意味や重さが、ここにあるのです。どうにもならないと思えない私がいる、どうにかしたい、どうにかなると思っている私がいる。これが自力ということなのです。
これから6回にわたって、わたしたちの、この「自力」のかたちをお釈迦さまの言葉などに聞きながら、テーマである「今、いのちがあなたを生きている」ということの、わたくしなりの受け取りをお話したいと思います。

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