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竹橋 太(北海道教区 法圓寺副住職)
第6話 自力のかたち 他力によって照らし出されるもの [2006.4.]音声を聞く

おはようございます。これまで5回にわたって、「自力のかたち」ということで、私たちの分別のありかた、つまり引き裂かれた私たち自身の有り方について、お話ししてきました。現代に生きる私たちの最大の関心事は、「人からどう見られているか」、また、そこから生じる「自分と人との比較」ではないでしょうか。少しでも善い者に見られたい、そういう自らの分別心によって、自らや世界を切り刻んで生きてしまっています。またそれに疲れて、感受性を押し殺して生きる。さらに、絶望して何も信じられないという状態になる。しかし、それすらも何も信じられないと言っている自分自身を信じていることだと仏教は教えます。それらを「いまの私たちにとっての生死のあり方」と言っていいと思います。
今日はその「生死を出ることのできる道」、つまり親鸞さまが、法然さまにいただいた「生死いづべき道」について、お話したいと思います。まず、お釈迦さまの説かれた生死いづべき道とは「中道」、中の道と書きますが中道と呼ばれるものです。これは仏道修行において、苦行でもなく、快楽にふけるのでもないという形で説かれた実践の道です。私たちは普通、快楽にふけることがだめで、苦行、がんばること、良いことをするのが正しい道であると考えています。しかしお釈迦さまは、間違いなく、苦行を捨てられて、覚った方です。この苦行と快楽ということは、実は「老いと若さ」「病と健康」「死と生存」というものさしと同じ有り方をしています。「苦行と快楽」という物差しを離れる、分別を離れると言うことが中道の内容なのです。自己の物差しの延長、つまり自力においては、言い換えれば自分の中でどう思おうが、どう反省しようが、そこに道はないというのが中道の指し示すものです。
そういう意味では中道と言うのは、今まで述べてきた自力、それを離れよと言う意味をもった教えであることがわかります。親鸞さまにとっては、悪人の自覚につながります。その中道にどうしても立つことができない姿が、中道、つまり真実の持つ力、即ち他力によって照らし出されるみずからの姿だからです。自力を離れることが正しいけれども、離れられない、どうしたらいいのだろうという時には、そこにはその答えが想定されてしまっているのです。だから失望や怒りもあるのです。それもやはり分別です。親鸞さまのおっしゃる悪人の自覚は、そうではないのです。分別としての自分自身の構造全体が「悪人」と言い当てられているのです。つまり悪人として自分自身と和解するのです。そして次の瞬間には、またそのことが分別の構造に落ちてゆきます。そういう自分の迷いの深さに触れながら、どんどんそのそこに降りてゆくことができるようになるのです。それが「生死いづべき道」つまりお念仏の教えなのです。お念仏をして善い者になるのではありません。凡夫となり、悪人となるのです。それが真宗の救いなのです。真実に出会って自分の虚妄性が知らされるだけであって、みずから真実になるのではありません。つまり他力とは、あなたが生きているのは自力によっている、それは分別である、あなたは凡夫であり悪人であると名づける力、はたらきなのです。
「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、こういうお念仏の教えそのものを表現した言葉として受け取ることができると思います。阿弥陀さまのはたらき、つまり他力、本願力が、今はたらいて、迷えるものよ、と呼びかけながら、あなたを生きているのです。私たちに、私たちの人生は苦であり、迷いであることを示すために、それに気づかない私たちの中で、漠然とした不安や、晴れない心として、今、ここで、はたらいているのです。しかし、私がいて、その力を受け取るのではないのです。私そのものが関係の網の目の上に存在しているからです。ですから、その力はまた私の内容でもあるのです。だから、今、私がここにいる、ということが尊いのです。条件は一切要らないのです。

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