ラジオ放送「東本願寺の時間」

木越 祐馨(石川県 光琳寺)
第五回 徳川家康との交流音声を聞く

 おはようございます。本日は教如上人ともう一人の天下人徳川家康との関係をみていきたいと思います。家康も秀吉政権の五大老の一人であり、秀吉も一目置く存在でした。この家康によってやがて教如上人の自覚と意志が実現することになるのです。二人の姿を追ってみましょう。
 二人の交渉がいつ始まったかは明らかではありませんが、慶長二年、西暦1597年、三月十七日の対面からお話を始めたいと思います。教如上人40歳の時です。この対面は貴族の山科言経の日記にみえる記事です。江戸内府、つまり徳川家康が、本願寺隠居、教如上人のことです。教如上人の茶湯に出向いたという簡単な内容です。このことを伝え聞いた言経は、二人の対面に興味を持ち記録したようです。准如上人方に属する教如上人の弟興正寺顕尊と言経の内室が姉妹であったことから、言経は教如上人の動きに注意をはらっていたとみられます。
 この対面でまず注目したいのはその時期です。秀吉政権はいまだ健在で、朝鮮への再派兵の三ヵ月ほど前のことです。教如上人は秀吉の怖さをよく知っていました。そこで教如上人は支持する門徒の多い三河地方、いまの愛知県を本国とする家康とよしみを結ぶことにつとめたようです。また家康も准如上人方より教如上人に親近感を抱いていたのではないでしょうか。
 翌年の慶長三年、西暦1598年、八月に秀吉が没すると、家康が政権の最高実力者となりました。この年十二月十日に家康は教如上人の許を訪れています。またも山科言経が日記に記載しています。今回の対面は、秀吉の亡きあとであったので、遠慮は不要でした。茶湯という形式も必要でなかったのでしょう。上人と家康との関係はより緊密になっていました。
 教如上人はこの関係によって親鸞聖人のおしえを受け継ぎ広めるための足掛りを得たといっていいでしょう。慶長四年、西暦1599年、蓮如上人が出版した正信偈・三帖和讃を新たに刊行しました。教如上人を支持する門徒に正信偈・念仏・和讃のおつとめを定着させたいとの思いからでしょう。教如上人の自信のほどがうかがえます。
 慶長五年、西暦1600年、家康が会津、いまの福島県の上杉景勝を討つため、大坂から関東に下ると、教如上人は見舞のため家康のもとに向かいました。この間に石田三成が挙兵すると、帰路途中の教如上人は三成方の妨害に会いました。この時、教如上人を守ったのが美濃、いまの岐阜県、近江、いまの滋賀県の門徒でした。
 つづいての関ヶ原の戦で家康が勝利すると、その五日後に教如上人は家康を出迎え、対面しています。その行動力には驚かされます。教如上人にとっても生き残りをかけた戦いだったといえます。
 関ヶ原の戦より二年後の慶長七年、西暦1602年二月に家康は伏見城に入りました。そして家康は教如上人に京都東六条の地を与えました。現在、東本願寺が立つ場所です。教如上人は45歳になっていました。秀吉から隠居を命じられてから九年後のことです。この出来事を、現在東西分派と呼んでいます。
 教如上人はこれを門徒にむけて屋敷替という言葉を使っています。この言葉で、新寺の建立ではなく、これまでの大谷本願寺の移転・継承であるということを強調したのではないでしょうか。教如上人の宿願であった親鸞聖人の御木像を安置することが、実現しようとしています。
 ところで教如上人は親鸞聖人の生涯を描いた絵巻物を携えて西本願寺を出ました。この絵巻物は親鸞聖人の遺徳を偲ぶ報恩講で読み上げるために必要なものです。教如上人が報恩講の大切さを認識していたことを示すエピソードです。教如上人は本格的に報恩講をつとめることのできる空間をようやく得ることができたのでした。

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