ラジオ放送「東本願寺の時間」

尾畑 文正(三重県 泉稱寺)
第2話 今、いのちがあなたを生きている [2005.12.]音声を聞く

おはようございます。昨年の今頃はスマトラ沖地震と、その影響で起きた大津波でもちきりでした。個人的な話ですが、私自身も、地震が起きた12月26日にはタイにいました。最初の計画では、当日は、津波で多くの観光客が死亡したプーケット沖のピピ島に宿泊している予定でした。
ピピ島は俳優として有名なレオナルド・ディカプリオ主演の映画「ザ・ビーチ」の撮影現場になったところです。私は急遽仕事が入ったために、当日ピピ島には行けなくて、津波被害には遭いませんでした。だから、今回の津波の被害には思い入れが深いものがあります。
ピピ島に行けば、必ず泊まるホテルは津波の被害で跡形もありませんでした。ホテルのスタッフには亡くなった人もあったと聞きます。元気に観光客に応対していた彼らの顔が思い出されます。一人ひとりの人生が、津波の中に飲み込まれていったことの悔しさを思わないではおれません。
そんな自然災害の続く中、今年の夏にはアメリカでは、ハリケーン・カトリーナによって、あのジャズで有名なルイジアナ州ニューオリンズが壊滅的な大被害を受けました。何万という人々が家屋を失い、多くの人が亡くなりました。更には、そのニュースも乾かぬうちに、パキスタン地震のニュースが報じられ、死者5万人ともいわれています。
ここで私は思います。私たちは、いつのまにか、スマトラ沖地震、更には、その影響で起きた津波による20数万人の死者数。新潟県中越地震、そして、アメリカのハリケーン、パキスタンの大地震の死者数の多さに圧倒されて、そこでいのち奪われた人たちの、一人ひとりのいのちの重さ、一人ひとりの生活、一人ひとりの歴史、一人ひとりの存在そのものが、いつしか、見えなくなっているのではないかということです。
例えば、ハリケーン被害の大半が、かつての奴隷の子孫たちです。そこにアメリカの社会的な矛盾が顔を出しています。パキスタンの地震跡には、極端に鉄柱の少ないビルがひしゃげています。そこにパキスタンの貧しさがあらわれています。スマトラ沖地震では、海岸部に生活を余儀なくされている貧しい人たちが直撃されました。
死者の数は単に津波の被害を表すだけでなく、地震という、津波という、台風という、いかんともしがたい、自然災害に、実は、大きく人間が作り出す社会的な矛盾が露出しているのです。貧困と差別の渦巻く世界を作り続けてきた私たち自身が問われなければならないでしょう。何万人が死んだという死者数に幻惑されて、そういう私たち自身の問題を見失ってはならないと思います。
更には、そこでいのち奪われた人々には、それぞれ、一人一人の人生があったはずです。20万人には20万人の、一人一人の人生があったはずです。喜びの人生もあったでしょう。悲しみの人生もあったでしょう。怒りの人生もあったでしょう。喜びも、悲しみも、怒りも、それらは人として生きる関わりの中で、私たちに起きてくる人間的感情です。それは人間が人間であることの印です。
その意味では、それら死者たちの「死」は、個人的な死を死んでいったというよりは、社会的な「死」を死んでいったのだということです。つまり、それらの「死」は、私たちと無関係な「死」ではないということです。
親鸞聖人は、貧しさの中で、私たちと同じように、人として生きることの苦しみ、悩み、もだえて生きている人々を「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」といわれました。このようなやり場のない悲しみと怒りに出会うたびに、親鸞聖人が「われら」といわれて、それらの人々の命を他ごとにしない生き方に、いつも他ごとにしている自分が問われます。まさに、「今、いのちがあなたを生きている」と、われらのいのちをわれのいのちと私有化している生き方が問われているのです。

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