ラジオ放送「東本願寺の時間」

日野 賢之 (石川県 西照寺)
第二回 この世の用事音声を聞く

 前回のつづきです。
 "亡くなったあの子は何処まで行ったのでしょう"と尋ねたお母さんに、私は"子どもさんはまだいる、お母さんと一緒に行くのだから、お母さんのいる間中いるのだよ"と返事をしてからそう言うてよかったのか、気持ちのすっきりしないままに、3、4日すぎて毎月開かれている近くの村のおまいりにでかけました。いつもは20数名のお集まりなのですが、その日はいつもと違って4、5人の、それもおばあさんばかりの同朋会です。
 〝今日はどうしておまいりの人が少ないんですか〟とお聞きすると、その日は、村の春の共同農作業の相談会が近くの農協の集会場でひらかれるので、みんな今夜はそちらの方へ行かねばならないんだ、ということでした。
 おまいりにこられた4、5人のおばあさん、どの方も、それこそわたしが生まれるまえからお参りしておられるおばあさんたちです。わたしは、おばあさんたちにお聴きしました。
 〝実は、つい先日、小さい子供さんをなくされたおかあさんに、なくなった子供さんはどこへも行ったりしない、おかあさんと一緒に行くんだから、おかあさんのいる間中、こどもさんもずっといっしょにいるんだ、というようなことをお話したんだけれども、ひょっとしたら、とんでもない間違いだったのではないだろうか〟と。
 どのおばあさんもいわれました。〝いやいや、それでいい そんななくなったものは決してどっかへ行ってしまうものではない、その人のことを思うものといつもいっしょなんだ、よく言うてあげた、よかったよかった〟と。
 私はほっとしました。なんだ、わたしのいったことは間違いではなかったんだ。それなら今まで、ウツウツとする必要はなかったんだ、えらい損をしたなあ、だけど自分だけ損をするのはつまらない、そう思うと同時に私はおばあさんたちにお尋ねしました。
 〝そんならちょっとお聞きするけど、おばあさんたちは、家にお爺さんおられるんですか〟
 〝いや、ここにいるモノはもうじいさんのおらんものばかりだ〟という返事でした。
 結婚して、わずか暫くの生活のあと、戦争で兵隊にとられてそれきり帰ってこられなかったと言われるおばあさん、つい最近、なくなったんだと言われるおばあさん、それぞれでありました。続いて私はお尋ねしました。
 〝私が若いお母さんに言ったことが間違いではないと言われるのなら、みなさん、今日帰られたら、家に入る前に、ちょっと屋根の上を見てごらん、きっとなくなったおじいさんおいでるよ。そしておばあさんに〝お前いつまで待たせるんだ、早く一緒に行こう〟と言われたら、どう返事するんですか〟と。
 すると、どのおばあさんも、お互い顔をみあわせながら〝まだイヤだねえ〟と言われました。
 〝じゃあ、それを聞かれたおじいさんは、きっと言われるよ〝そうか、まだイヤか。まあ、どうぞもうしばらくだろうから、いくらも待たんことはないけれど、お前、この娑婆に、この世の中に、まだどんな用事があるんだ〟と問われたら、どう返事するんですか〟
 おもしろいことに、どのおばあさんも黙っておられました。
 〝じゃあ、このことは、来月までの宿題にしましょう。今夜はこれでおしまい〟
 その日の同朋会は30分くらいで終わりました。
 そして次の月の同朋会の日、お集まりはいつものように20数名の参加者でした。
 前回のおまいりに参加されなかった方々に先月はだいたい、どういうことを話しおうたかということを簡単に説明してから、
 〝さあ、おばあさんたち、先月の宿題、まだおじいさんと一緒に行くわけにいかない、どんな用事があるんですか。おっしゃってみてください〟とお尋ねしました。
 おばあさんたちは、やはり黙っておられました。いいえ、決して用事がないわけではありますまい。1本ずつ指をおって数えていけば、それこそ5本の指ではとてもたりないことぐらいの用事を思いつくはずです。
 畑仕事をしなければならないとか、若い人たちはお勤めにでておられるから食事の用意をしなければならないとか、孫の世話をしなければとか、温泉へも行きたいしとか、次々と思い浮かんでくるに違いありません。
 けれども、それらの用事が1つ1つ片付いてしまった、また指がみんな開くことになったとして、〝さ、おじいさん、おまちどうさま〟ときっぱりということが出来るかというと、実はそうではないということ。
 自分が、今、生きているということと、自分の頭の中に浮かんでくる用事との間に、なにかしらいつもスキ間があるということ。
 今、お聴きになっておられるみなさんは、いかがですか。
 今、生きている本当の用事はなんですか。

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