ラジオ放送「東本願寺の時間」

日野 賢之 (石川県 西照寺)
第三回音声を聞く

 今日もよろしくお願いします。
 私たちの学生時代の先生は、山田亮賢(やまだ りょうけん)先生と申しあげます。お釈迦様のお説きになられたお経のひとつである華厳経というお経についてのお話、またインドに出られた天神菩薩の広められた人間の心とはどんなしくみになっているのかを教えられる唯識学というお話は、その頃の私たちにとっては、どこから手をつけてよいやら、おまけに、〝算術の素養がないと華厳はわからない。数学をやりなさい〟などとおっしゃる、ずいぶんと厳しい方でありました。
 経典を、いつも先生ご自身の経典に対する感動をこめて話される、格調高いご講義の内容でした。けれども、最初の頃は正直、ちんぷんかんぷんでした。
 私たちのゼミ、クラスは学生5人、2、3日講義をさぼると、必ず、〝なになに君はどうしたんだろう。誰か学校の帰りに下宿をたずねてみなさい。熱でもだして 寝込んでいるのでは〟と心配してくださる先生でありました。
 大学の歴史、大学に受け継がれてきた仏教を学ぶ姿勢のあり方、など、話しされるときはご講義以上に熱のこもったものでありました。
 夏に入ると、私の学んだ大学のある京都はそれこそむし暑く、そのころの大学には 冷房の設備などなく、午前中の講義のために教室へはいってこられた先生に〝先生、今日は一段と暑くなりそうです〟と申し上げると、〝じゃあ、今日は、どこか場所を替えて勉強しようか〟と、ゾロゾロと加茂川ぞいの植物園近くの喫茶店での授業となったことでした。
 お昼近くになる先生は、上着のなかから 財布をとりだされ、中をのぞかれてから、〝今日はあいにく持ち合わせが少ないので、君たちのカレーライス分は出せるけど、食事のあとのコーヒー代は、各自負担してくれるかね〟と言われ、〝はい、ありがとうございます。おばさん、カレーライス大盛に〟などと、ずいぶん厚かましい生徒でありました。
 クラスの忘年会は、いつも大学のちかくの料理屋さんでした。貧乏学生ばかり、ということで、メニューはいつも牛肉より料金のずっと安いトリ肉のすき焼きでした。歌や手拍子、踊りだす者(まで?)でる宴たけなわのとき、突然、先生が泣きだされたことがありました。驚きました。なんで先生が泣かねばならないのか、みんなの日ごろの不勉強のせいか、なんだかんだといいながらズル休みばかりするからか、あるいは、先生ももうおとしを召されて、泣きじょうごになられたのか。歌も止み、手拍子もとまり、踊っていたものも不審な顔をして座り、シーンとなったとき〝先生、いったいどうなさったのですか〟とおそるおそるお尋ねすると、しばらくして、先生は、つぎのように話はじめられました。
 〝イヤ、すまない、みんながせっかく愉しんでいるのに、涙など流して。実は今、思い出したことがあるんだ。あの戦争中、学徒総動員令がだされ、君たちの先輩もいっせいに学業を中断して戦場にいかねばならないことになったとき、食糧事情も悪く、せめて少しでも栄養の足しにと、卵を産ませるために飼っていたニワトリでささやかなすき焼きを用意し、下鴨の自宅でお別れ会をひらいた。おわってから、大学の寮歌をうたいながら下鴨神社の土塀沿いに帰っていく学生をみおくってから、戸締りをしようとしていたとき、カタカタと学生の厚歯の下駄の音が近づいてくる音が聞こえたので、誰か、忘れ物でもしたのかと思い、戸をあけて外へ出ると、学生のひとりが〝先生、もういちどお顔を見たかった〟そう言うなり、また友のあとを追ってカタカタと走っていった。今日のトリ肉のすき焼きをみて急にそのことをおもいだしたんだ。あの下駄の音は今も耳にのこっている。大きな戦争の中で、ボクはなにもできなかった。戦争を止めることも、みんなが戦場に行くことを防ぐことも、本当に何もできなかったのだ。そのことが、今もくやしい。残念なんだ。せっかくみんなが愉しんでいるのに、実にすまない。申し訳ない。〟と。
 忘年会は戦争で命を奪われた先輩たちをしのぶ宴となりました。私は先生の心の中に、これほどまでにつらい思い出があって、その悲しさ、くやしさは今もけっしてうしなわれることなく、おもいつづけておられるのか、と。
 私は、この先生のもとで学びながら、もっともっと大切な何かを、少しなりとも受け止めていくことがはじまったようにおもいました。
 そして、この先生に、山田亮賢先生にお会いすることができて、本当によかったとおもいました。
 なお、大学院での学業を終えたとき、先生は私たちにかけられたお言葉は
 〝ボクは君たちに学者になってもらいたくて今日まで一緒に勉強してきたのではない。それぞれ現場へ歩み出したまえ。ひとりで勉強するクセはついただろう〟というものでした。
 ではまた次の時間に。

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