機関紙『同朋新聞』

第7回 本願の信心-本願について

親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を説いている『大無量寿経』を、「如来出世の本懐(ほんがい)」の経であると見定められました。さらにそのことを、「真実の教え」といただき「大乗仏教の至極(しごく)」であるとも見ておられます。菩提(ぼだい)の内実がさまざまに伝えられる中に、その内実の無限性(自利・利他の追究の深まり)が、一切の衆生(しゅじょう)を救い上げることを課題とする法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)を語り出して来たのだ、ということです。それによって、衆生が有限であることに気づくにつれて、菩提への追究が無限の深さを持つことを知らされ、自己の個人的な立場の要求を転じて、一如(いちにょ)(無限)からの大いなる働きかけ(大悲の如来の本願)を信ずる立場が開かれてきた、ということなのです。

 

『大無量寿経』に説かれる法蔵菩薩は、願心を深めて、その成就のために、長い時間を思惟して永劫に修行すると説かれています。このことは、この世の次第に従って、因から果への展開で経が説かれているのです。この因果の結果は、大乗の至極としてあらゆる衆生を平等に大涅槃に至らしめる仏土が開示されてきます。この仏土の場所は仏果ですが、その場所から法蔵菩薩の願心が因を起こすのです。すなわち果から因が展開していることになります。

 

法蔵菩薩の願心の課題は、決して個人的な問題に尽きないことを示し、人類が尽きるまで歩み続けてやまないものであることを表そうとするものなのです。それは大乗経典の『華厳経(けごんきょう)』の結びに「普賢(ふげん)菩薩(一切衆生を救い遂げようとする菩薩)」を説き出している課題でもあるのです。

 

この無限に尽きない菩提心の課題を、法蔵菩薩の願心において語る『大無量寿経』こそが「如来出世の本懐」であるとされるのです。その『大無量寿経』の説法を語り出す教主世尊のお顔が、「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」と輝いていたと言うのです。そのことを不思議に思った仏弟子阿難(あなん)が、「今日、世尊が光顔巍巍とされているのは、何故ですか」という問いを出し、その問いを釈尊がお褒めになったというのです。この釈尊が「光顔巍巍」として説き出した経典こそ、求道心の課題が展開するあり方を適切に教えているのです。それで親鸞聖人は、法蔵菩薩による本願の因果を説く『大無量寿経』こそ、「如来出世の本懐」の経典であると受けとめられたのです。これは果から因へと語り出す経典を、有限なる私たちの自己中心の迷いを晴らす「真実教」と仰ぎ、無限なる果(大涅槃)が、有限の私たちへ平等の救済(大乗仏教の至極)を教えるものとされたのです。

 


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本多 弘之
本多 弘之

(ほんだ ひろゆき)

 

親鸞仏教センター所長

東京教区東京1組本龍寺住職