機関紙『同朋新聞』

「問い」に耳をすませて

この紙面では、さまざまな人をとおして、現代社会の抱える課題や人間そのものについて考え、宗祖御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」、慶讃テーマ 「 南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」の学びを深めていきたいと思います。

皆さんは「対話」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか。対話は大切だと思う反面、対話をしても成り立たないと思う人もいるのではないでしょうか。今号では、全国各地で問いを深める「哲学対話」を実践される永井玲衣さんのお話から、「対話」をとおして見えてきた人間の(すがた)を考えます。

  • 永井(ながい) 玲衣(れい)さん

    1991年、東京都生まれ。人びとと考え合い、聞き合う対話の場を各地で開いている。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)、『世界の適切な保存』(講談社)など。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。

対話とは聞き合うこと

  • ―現在、「対話」切に求められ、またその難しさに直面する時代でもあろうかと思います。永井さんは、各地で「哲学対話」を開かれていますが、どのような「対話」を実践されているのでしょうか。

     

    哲学対話は、全国いろいろな場所で開かれていて、実践する人によって開き方がさまざまです。まずそこが哲学対話のいいところだなと思っています。何かこうしなければいけないとか、これが真の対話だとか、そういう決まりはなくて、その現場に応じて、場が変化してくるところがすごく好きですね。

     

    私は、「哲学」という言葉を、とても日常的な営みだと思っています。日々生活をしている中で、「なぜ」と問うてしまったり、「本当にそうなのかな」という違和感に引っかかってみたりすることがあります。そうした「なぜ」ということを、「問い」と私は呼んでいて、その「問い」を参加した人たちと聞き合って、その「問い」についてゆっくり掘り下げていくのが哲学対話です。

     

    私たちは日々いろいろな問いに出会っているはずで、実は誰もがもう哲学をしているんですね。ですが、それをなかなか表現できる場がこの社会には少ないなと思っています。それを表現し得る場として、この哲学対話を大切にしています。

     

    私は、「対話」という言葉を、「聞き合うこと」と言い換えています。対話には、「話す」という字が入っていますので、「話し合い」とよく言い換えられますが、そうではなくて、まず互いの声を聞く、自分の声を聞く、そして沈黙も聞く。あるいは、「ここにいない人」の声も聞こうとする。そういう「聞く」ということをどこまでも(ひろ)げていこうとする場としての対話を試みてみたいと思っています。

     

    何か考えを深めていく時に、この場にいるメンバーだけで「共通合意をつくりましょうね」ということもあるかもしれません。ただ、社会というのは、ここに集まった人だけではないですよね。「ここにいる10人全員が満足します」ということだけではなく、その枠外にいろいろな人がいて、「この人はどうかな」とか、そういったことも考えてみようとする場になったらいいなと思っています。

     

     

    ―実際、哲学対話の場では、どのような問いが出てくるのでしょうか。

     

    私は週に6回ぐらい哲学対話の現場があって、ほぼ毎日あります。例えば、昨日はオンラインの場でしたが、学生さんが参加されていて、その方が出してくれたのが、「大人の言う〝社会〞ってどこにあるの」という問いでした。

     

    よく学校で、「社会は厳しいから、そんなんじゃ通用しないぞ」と言われると。「でも、その時の社会ってどこにあるんですか」、「ここは社会じゃないんですか」、「大人が言う社会って、会社みたいな感じがする」というような問いが出ました。確かに、大人には会社の経験があったとしても、せいぜい一つか二つぐらいで、それで社会がわかっていることになるのかなと思いますよね。

     

    「問い」というと、すごく大いなるものであったり、あるいは「哲学」という言葉がつくと、何かアカデミックなものをイメージされる方が多いと思います。だけど、私は「問い」というのは、いろいろな言葉に言い換えられると思っていて、もやもやとか、不安とか、悩みとか、違和感とか、「くすっとした」とか、「恥ずって思った」とか、そういう言葉に実は言い換えられているのではないかと思っています。だから、私たちは日常のさまざまな営みの中で、ほんの少しだけこころがくらっと動いた瞬間に、実は問いに出会っているんです。それを、「もしかしたら問いじゃないかも」とか、「哲学的じゃないかも」とかと思って押し込めてしまっているのではないかと思うんですね。だからこそ手のひらのように、人から見て頼りなさそうに見えるし、小さいし、でも、等身大で人肌が感じられるような問いのことを「手のひらサイズの問い」と名前をつけて、「ぜひ、それも教えてください」とあえて言うようにしています。

     

     

    ―週6回も行われていると、まさに日常としての哲学対話ですね。哲学対話を行う際に大切にされていることはありますか。

     

    私はもともと人と話すのがとても苦手で、引きこもり体質だったので、自分が対話の活動をしているなんて、今思えばあり得ないなと思います。実は、この活動は私の勘違いから始まっています。大学生の頃からこの活動を始めているのですが、哲学対話は、「哲学カフェ」と呼ばれることもあるんですね。それで、先輩が哲学カフェを運営していたのですが、ある時、「明日いないから、哲学カフェに代わりに行ってほしい」と言われて、ちゃんと内容を聞かずに、カフェなら行きたいと思って行ってしまったことが始まりなのです。だから、対話するつもりではなかったという、いわば誤読から始まった活動なんです。

     

    ですから、私自身最初は、対話というものに、忌避(きひ)感や嫌悪感を抱いていました。しかし、現場に行かせてもらうたびに、その人たちの本当に切実な声みたいなものに出会って、骨身に染みてわかったことは、どんな人もすごく考えていて、問いがあるのだということです。なのに、そのような問いがちゃんと聞かれていない、ということに衝撃を受けるようになりました。

     

    対話って、人の尊厳とすごく関わっていることだと思います。この社会って、「あなたのその意見は聞くに値しない」とか、一人の声を社会の中で(おお)い隠しているんですよね。しかし、互いの声を聞くと、その相手、一人の人間が現れてきます。その人の話がおもしろいからとか、生産性があるから聞いてもらえるのではなくて、どんな声でも、その人の尊厳の問題として聞かれなければいけないと思うようになりました。

     

     

対話が怖かった

  • ―永井さんは、著書の中でも、「わたしは対話がこわかった」(『水中の哲学者たち』)とも書かれていますね。対話が大切だと思いつつ、対話が怖い、苦手だ、という人も多いかと思います。「対話」のつらさはどこにあるのでしょうか。

     

    「対話が怖い」というのは、一つに他者が怖いということなんだと思うのです。傷つけられたくない、傷つきたくないという気持ち。みんな「対話は大事だ」と言うけれど、実は誰も対話をしたくない社会なのだと思います。私自身もそれを理解できるので、全く否定できません。だからこそ、「なぜ対話をしたくないのだろう」と問わなければならなくて、そして、それはたぶん私たちは人びとが集うということについて、傷ついてきているからなのだと思っています。3人以上になると社会が生まれますが、家族であったり、教室であったり、大きくいえば社会、国、世界というようになった時に、その中で傷ついてきているんですよね。

     

    ですから、傷を回復していくような、修復していくような試みが必要で、この試みとして、対話も一つの手だてだと思っています。辛抱強く、互いの声をまず聞いてみる。話していくうちに互いが一人の人間になっていくし、「何だ、話せるんだ」とか、「何だ、ここに一緒に座っていられるんだ」、ということに開かれていく時間でも対話はあるのです。だから、信頼があって対話があるのではなく、対話をとおして信頼をつくっていかなければならないのだと思います。

     

    私も、他者が怖いと言っていた時期は、信頼をまさかつくるものだとは思っていなくて、もとからあるものだと思っていました。ですが、いろいろな場に行くにしたがって自分自身が教わって、考えが変わっていったというのが大きいです。

     

     

    ―他者と完全に理解し合うことはできないと思う一方で、「それでもなお、わたしはなお、あなたとは完全にわかりあえないということに絶望する」(『水中の哲学者たち』)と言われています。永井さんにとって、「他者」とはどのようなものでしょうか。

     

    私がよく思うのは、例えば対話をしていて、人がしゃべり始めますよね。そうすると一冊の本のようなんですよね。あるいは一つの宇宙のような、すさまじい奥行きがあって、今話してくれているけれど、きっとこの言葉以上の、無限の、その人の経験や思いがあるんだろうなということが、わからないけど、ビシバシわかるんですよ。一つの宇宙を見て驚いて、「は、話し終わった」と思ったら、次の人が別の宇宙。「えっ、まだあるの、宇宙って」というように、今度は別の人が宇宙を展開するわけですよね。その時には、わかるとか、わからないとかなどというシンプルな二項対立を超えていきます。「この人はこういう人だね」とはとても言えないし、計り知れないのだけども、その人の深淵(しんえん)を見せてもらえたような手触りがあります。

暴力に対抗するもの

  • ―永井さんは、「第17回〔池田晶子記念〕わたくし、つまりNobody賞 受賞記念講演」で「対話は、暴力に抗することです。哲学は、暴力を拒むことです」と話されていますが、対話が暴力にあらがうことになるというのはどういうことなのでしょうか。

     

    「あるものをないことにする」というのが、私は暴力だと思います。声があって、考えがあって、葛藤があって、切実さがあるのに、それがないように、「この人は考えていないよね」とか、「いや、そんなことを思うべきではない」とか、そういうように大きな手で問いを覆い隠すということも暴力だと思います。

     

    対話というのは、一緒にいようとすることです。暴力は一緒にいないようにすることです。対話は、「こいつ、むかつく」と思いながらも、でも一緒に生きようとすることです。ですから、そういう意味でも、暴力に対抗するものとして対話はあってよいと思います。(了)

インタビューを終えて

「対話」とは何か。人の声をじっくりと聞く、という実にシンプルな実践のことなのかもしれません。しかしまた、これほど難しいことはありません。永井氏の言うように、意味のない問い、価値のない疑問、として聞かないようにしてしまっている声はないでしょうか。
あるいは信頼を置けず発することのできない問い。他者の声だけではなく、私の中にもそうした問いが眠っているのではないでしょうか。このような問いを「ないこと」にしてしまう暴力性を抱えるのが、私のいのちの(すがた)でもあります。だからこそ、聞き合い、決して「ないこと」にはできない存在のあることを知っていかなければならないのだと思います。(教学研究所助手 中村(なかむら) 玲太(りょうた)