―現在、「対話」が切に求められ、またその難しさに直面する時代でもあろうかと思います。永井さんは、各地で「哲学対話」を開かれていますが、どのような「対話」を実践されているのでしょうか。
哲学対話は、全国いろいろな場所で開かれていて、実践する人によって開き方がさまざまです。まずそこが哲学対話のいいところだなと思っています。何かこうしなければいけないとか、これが真の対話だとか、そういう決まりはなくて、その現場に応じて、場が変化してくるところがすごく好きですね。
私は、「哲学」という言葉を、とても日常的な営みだと思っています。日々生活をしている中で、「なぜ」と問うてしまったり、「本当にそうなのかな」という違和感に引っかかってみたりすることがあります。そうした「なぜ」ということを、「問い」と私は呼んでいて、その「問い」を参加した人たちと聞き合って、その「問い」についてゆっくり掘り下げていくのが哲学対話です。
私たちは日々いろいろな問いに出会っているはずで、実は誰もがもう哲学をしているんですね。ですが、それをなかなか表現できる場がこの社会には少ないなと思っています。それを表現し得る場として、この哲学対話を大切にしています。
私は、「対話」という言葉を、「聞き合うこと」と言い換えています。対話には、「話す」という字が入っていますので、「話し合い」とよく言い換えられますが、そうではなくて、まず互いの声を聞く、自分の声を聞く、そして沈黙も聞く。あるいは、「ここにいない人」の声も聞こうとする。そういう「聞く」ということをどこまでも拡げていこうとする場としての対話を試みてみたいと思っています。
何か考えを深めていく時に、この場にいるメンバーだけで「共通合意をつくりましょうね」ということもあるかもしれません。ただ、社会というのは、ここに集まった人だけではないですよね。「ここにいる10人全員が満足します」ということだけではなく、その枠外にいろいろな人がいて、「この人はどうかな」とか、そういったことも考えてみようとする場になったらいいなと思っています。
―実際、哲学対話の場では、どのような問いが出てくるのでしょうか。
私は週に6回ぐらい哲学対話の現場があって、ほぼ毎日あります。例えば、昨日はオンラインの場でしたが、学生さんが参加されていて、その方が出してくれたのが、「大人の言う〝社会〞ってどこにあるの」という問いでした。
よく学校で、「社会は厳しいから、そんなんじゃ通用しないぞ」と言われると。「でも、その時の社会ってどこにあるんですか」、「ここは社会じゃないんですか」、「大人が言う社会って、会社みたいな感じがする」というような問いが出ました。確かに、大人には会社の経験があったとしても、せいぜい一つか二つぐらいで、それで社会がわかっていることになるのかなと思いますよね。
「問い」というと、すごく大いなるものであったり、あるいは「哲学」という言葉がつくと、何かアカデミックなものをイメージされる方が多いと思います。だけど、私は「問い」というのは、いろいろな言葉に言い換えられると思っていて、もやもやとか、不安とか、悩みとか、違和感とか、「くすっとした」とか、「恥ずって思った」とか、そういう言葉に実は言い換えられているのではないかと思っています。だから、私たちは日常のさまざまな営みの中で、ほんの少しだけこころがくらっと動いた瞬間に、実は問いに出会っているんです。それを、「もしかしたら問いじゃないかも」とか、「哲学的じゃないかも」とかと思って押し込めてしまっているのではないかと思うんですね。だからこそ手のひらのように、人から見て頼りなさそうに見えるし、小さいし、でも、等身大で人肌が感じられるような問いのことを「手のひらサイズの問い」と名前をつけて、「ぜひ、それも教えてください」とあえて言うようにしています。
―週6回も行われていると、まさに日常としての哲学対話ですね。哲学対話を行う際に大切にされていることはありますか。
私はもともと人と話すのがとても苦手で、引きこもり体質だったので、自分が対話の活動をしているなんて、今思えばあり得ないなと思います。実は、この活動は私の勘違いから始まっています。大学生の頃からこの活動を始めているのですが、哲学対話は、「哲学カフェ」と呼ばれることもあるんですね。それで、先輩が哲学カフェを運営していたのですが、ある時、「明日いないから、哲学カフェに代わりに行ってほしい」と言われて、ちゃんと内容を聞かずに、カフェなら行きたいと思って行ってしまったことが始まりなのです。だから、対話するつもりではなかったという、いわば誤読から始まった活動なんです。
ですから、私自身最初は、対話というものに、忌避感や嫌悪感を抱いていました。しかし、現場に行かせてもらうたびに、その人たちの本当に切実な声みたいなものに出会って、骨身に染みてわかったことは、どんな人もすごく考えていて、問いがあるのだということです。なのに、そのような問いがちゃんと聞かれていない、ということに衝撃を受けるようになりました。
対話って、人の尊厳とすごく関わっていることだと思います。この社会って、「あなたのその意見は聞くに値しない」とか、一人の声を社会の中で覆い隠しているんですよね。しかし、互いの声を聞くと、その相手、一人の人間が現れてきます。その人の話がおもしろいからとか、生産性があるから聞いてもらえるのではなくて、どんな声でも、その人の尊厳の問題として聞かれなければいけないと思うようになりました。