

親鸞聖人は、曇鸞大師の註釈から『大無量寿経』を理解するためのヒントを、いくつも汲み出しておられます。そのひとつが、「他力」についての理解になります。この言葉は、世間一般に使われていたものを、曇鸞大師が仏教用語に取り入れたのであるとされています。
この他力ということを、本願力を表しているのだとして、親鸞聖人が厳密に意味を指定されたのです。では、本願力とはいかなる力なのでしょうか。
これについて曽我量深先生が、たびたび触れておられたことが思い起こされます。それは次のようなことでした。曇鸞大師が「力」について、「願力成就」ということを述べているが、因の本願の位と果の仏力となった位、その因と果とが互いにはたらき合うことを、「成就」というのだと。それを「願もって力と成る。力もって願と就る」と註釈されている。「就」には「つく」という意味があり、就任とか就職とかと熟字されるのだが、「なる」という意味もあるとされるのです。その例として、日本の戦国時代に「毛利元就」という武将がいて、「もとなり」と読んでいた、と。それで「成就」と熟字されているのだというわけです。
この願力成就の註釈が出てくるのは、曇鸞大師の『浄土論註』下巻の「不虚作住持功徳」を註釈している箇所なのです。この註釈の箇所は『教行信証』では「行巻」の一乗海釈の結びに全文が、「証巻」で後半が、そして「真仏土巻」にも全文が引用されています。阿弥陀如来のはたらきは、因である本願のはたらきでもあり、果である仏のはたらきでもある、と。それを「願力成就」というのだ、というのです。
こういう展開によって『大無量寿経』の法蔵菩薩という名前で表される意味を、親鸞聖人が「一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたち」(『真宗聖典第二版』六七九頁)とお示しになられることには、聖人の『浄土論註』への深い読み込みがあったことが思われるのです。
そして、ここに「方便法身」という言葉が出されていますが、いうまでもなくこれも『浄土論註』にある「法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出だす」(『真宗聖典第二版』三三二頁所引)に由来することが思われるのです。さらにこれらの思索が、大乗仏教の思想をまとめている大乗の『涅槃経』の読み込みによって、裏付けられていることも知らされるところです。

(ほんだ ひろゆき)
親鸞仏教センター所長
東京教区東京1組本龍寺住職