

親鸞聖人がお念仏の教えを自分のところまで届けてくださった師として、生涯大切に仰がれた方々がいます。「七高僧」と呼ばれるインドの龍樹・天親、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・源空(法然)。そして「和国の教主」と仰がれた聖徳太子です。
親鸞聖人は彼らからどんな「ひかり」を受け取られたのでしょう。源空について、3回にわたってたずねています。

源空上人より前から、浄土教は日本に伝わっていました。しかし、浄土教は十分に修行できない人のための教えでしかないと基本的に考えられていました。そのため、かなりの期間にわたって、浄土教はさまざまな宗派のオマケのように捉えられていました。
そのような中で、源空上人は、浄土の教えは、さまざまな宗派の付け足しではなく、独立した一つの宗であると主張して、浄土宗を開きました。
しかし、浄土宗の教えは、既存の諸宗から厳しい非難を受けました。源空上人の「念仏を称えればすくわれる」という教えは、民衆に迎合し、戒律や修行を軽視するものと捉えられたからです。
やがて、浄土宗への批判は、朝廷までをも巻き込んだ大騒動へと発展します。浄土宗を支持する民衆の力を朝廷も無視し得なかったのです。1205年には、奈良仏教の中心であった興福寺の僧侶たちが、源空上人の教えは秩序を乱すものであるとして、朝廷に訴え出ました。源空上人の弟子たちによる積極的な布教活動も相まって、1207年に後鳥羽上皇の院宣によって、源空上人とその弟子たちが処分されます。
源空上人は京都から土佐国(高知県)に流罪に処されました。弟子の中には、死罪に処せられた者もいました。親鸞聖人もまた、弟子の一人として、越後国(新潟県)への流罪に処せられます。
この事件は、「承元の法難」と呼ばれています。親鸞聖人は、主著の『教行信証』にこの事件の記録を載せています。聖人にとっても、この法難は大きな意味を持った事件だったのです。
源空上人は、この法難に先立って、66歳の時に『選択本願念仏集』を著していました(1198年)。これは、浄土宗の教えを明確にするために、念仏が仏道において真実の行である証拠となる仏典を集めたものでした。
多くの場合、仏道における修行は、修行者自身が選びます。しかし、たくさんの修行から自らに適したものを選ぶことは難しいものです。おみくじが比叡山で考案されたのはこのためです。これに対して、源空上人は、念仏は、阿弥陀如来が本願によって選び取った真実の行であると示しました。末法の世に凡夫が選び取ったものではないのです。
末法の凡夫と自覚していた源空上人は、自分勝手に考えを主張したわけではありません。既に仏典の中に、阿弥陀仏からの真実の行が、ひかりとして示されていたことに気づいたのです。


(わけみ あきら)
大谷大学文学部仏教学科教授
京都教区近江第25西組長光寺住職