機関紙『同朋新聞』

「やめなさい」と言われた日―淡路病院・災害時トリアージの現場から

この紙面では、さまざまな人をとおして、現代社会の抱える課題や人間そのものについて考え、宗祖御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」、慶讃テーマ 「 南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」の学びを深めていきたいと思います。

私たちは病院に行けば治療を受けられるのが当然だと考えています。もちろん普段はそうあるべきですが、災害時には大勢の傷病者に医療体制が追いつかず、治療の順序を決めなければならない場面が致し方なく生じてきます。これをトリアージと言い、日本では阪神・淡路大震災の兵庫県立淡路病院で行われたのが最初とされます。その現場に身を置き、実際に災害時のトリアージを経験した水谷和郎先生のお話をとおして、人間といういのちの(すがた)を考えます。

  • 水谷(みずたに) (かず)()さん

    1964年神戸市生まれ。循環器専門医。心臓リハビリテーション認定医。日本災害医学会セミナーインストラクター。1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災の経験をもとに全国で災害医療に備える活動を続けている。

災害時トリアージの現場で

  • ―水谷先生は阪神・淡路大震災の際に震源地に近い兵庫県洲本(すもと)市の兵庫県立淡路病院で、映像記録としては日本で初めてとされるトリアージの現場におられたということですが、トリアージとはどういうものなのでしょうか。

     

    トリアージというのは、多数の傷病者や病人が出た時に、治療の優先順位を決めることです。しかし、震災があった30年前は、一般の医療者にトリアージという概念は普及していないという状況でした。なので、私たちが行っていたことがトリアージだということを、当時の私は知りませんでした。

     

     

    ―その時の水谷先生は、どういう役割をされていたんでしょう。

     

    私はあの日、当直医でした。3年目の内科医で、他に5年目の整形外科の医師と1年目の研修医がいました。今でこそ医師は全ての科で研修しますが、当時は自分の専門しか研修しなかったので、私は内科しか知らない状況でした。

     

    地震の直後は、病院のある洲本市内も静まりかえっていて、そんな大変なことが起きているとは考えてもいませんでした。しかしそのうちに、徐々に搬送されてくる患者が増えてきて、重傷者も増えて、救急外来の患者が入る場所がなくなってきました。

     

    私は他の先生方と3人で心臓マッサージをしていて、始めてから30分はたっていました。普段の救急対応であれば、15分から20分心臓マッサージをして蘇生しなければやめる判断をします。でも、あの時はいつやめるべきなのか、まったく見当がつきませんでした。次から次へ患者は来る。でも、目の前の人を蘇生しないといけない。誰がいつどういう基準でやめるのかを、3年目の私は判断できませんでした。

     

    そこに、後ろから外科部長の(まつ)()(しょう)(ぞう)先生がやってきて、何分ぐらいこの人を処置しているかを聞かれました。30分たっていると答えると、松田先生は私たちに「やめなさい」と言って、ご家族に患者さんの状況と処置の中止について説明されました。その時、正直、「え、心臓マッサージをやめていいんだ」と思いました。

     

     

    ―当時の現場では、松田先生が状況を聞いて、治療にかける時間や順番などを指示されていたということですか。

     

    そうですね。今はトリアージタッグという緑・黄・赤・黒の4つの色分けがあって、歩ける人は緑、息をしていない人は黒といったかたちで赤からなどと治療の順番を決めていきます。その基準には性別や人種、障害の有無といった属性は入っていません。その時のシンプルで客観的な評価だけが判断の基準です。しかし、このタッグが統一されたのは、阪神・淡路大震災の後の話です。

     

    当時の淡路病院では当然、トリアージタッグは存在せず、松田先生が判断されました。重傷者に対する治療をやめるだけではなく、軽傷者の外科系の外来への振りわけといった指示が始まりました。

     

    あの状況で、トリアージができたのは、淡路病院の中で松田先生しかいなかっただろうと思います。松田先生が「やめなさい」などと指示してくれたのには、誰もがある意味、ほっとしていたと思います。やはり目の前に患者さんがいたら、当然、助けたいと思いますから。

     

     

    ―水谷先生は医師になる時に、自分も被災し、災害医療の現場でトリアージをする立場になると考えたことはありましたか。

     

    いや、まったく考えていませんでした。震災に遭うまでは、患者さんを病気やけがから救っていくことが医師の使命だと考えていました。それが突然、災害医療の現場に立つことになって、当時、トリアージという基準がない中で、どこで処置をやめるかという判断には相当な葛藤(かっとう)がありました。淡路病院だけでなく、震災を経験した先生方はみんな、そういう状態にあったと思います。その決断で、私も含めトラウマになっている先生もおられると思います。皆さんが震災の話をなかなかされないのは、それが理由だと思うんです。この話をすると、私は今でも人前でぼろぼろ泣いてしまいます。だからこそ、現在、トリアージという一定の基準があるのは、大きなことだと思います。

  •  

    START法トリアージ YouTube

経験を伝える

  • ―先生はその震災での経験を、日本災害医学会のインストラクターとしてさまざまな人に伝えておられますね。

     

    実は、私は震災から3年ぐらいは震災のことを普通に話せていたんですよ。それが3年目で、ぱたっとしゃべれなくなってしまいました。しゃべりだしたら泣いてしまうんです。10年目まで人前で自分の経験を私は話せませんでした。それが変わったきっかけは震災から10年目の2005年、兵庫県姫路市にある姫路循環器病センターにいた時です。1月17日に黙祷の時間が設けられたんですが、そこで初めて、震災当日に淡路病院の当直だったという話をしました。すると話を聞いていた看護師が、(なぐさ)めてくれようとしたんだと思うのですが、「先生、この病院は坂の上にあるし、地震が起きても誰も来おへん(来ない)」って言ったんです。その言葉を聞いた時に、誰も来ないなんてあり得ない。病院なのだから絶対に患者であふれかえるだろう、そして、その対応がこの病院には到底できないのではないかと思ったんです。それでハッと、震災時の淡路病院の様子を撮影したビデオがあることを思い出しました。あの映像を見てもらったら、この病院が災害時に少しでも動けるようになるかもしれないと。

     

    こうして院内での研修を始めて3年ほどした頃、日本災害医学会という学会で災害医療の対応を研修するセミナーのことを知り、被災した経験をみんなに伝えることができるインストラクターになろうと思って、今に至っています。

     

     

    ―自身の経験を講義やインストラクターとして伝える中で、大切にしている視点や重点を置いて伝えていることはありますか。

     

    震災の時は、トリアージの基準なんてなかったので、どうしたらいいのかが本当にわからなかった。それに、スタッフの能力にも差がありました。だから、基準があるというのがいかに大きいことなのかというのを、医療を学ぶ学生さんに向けた講義などでは強く主張させていただいています。

     

    そして、被災経験もなく災害医療を知らない人があの時と同じ状況に身を置いたら、場合によっては淡路病院よりもさらに混乱した対応しかできないだろうと思うんです。そうなったら、助けられる人も助けられない。だからこそ、トリアージの基本を知った上で、自分で置かれた状況を判断して、何が大切なのかを考えて動ける人になってくださいねということをお話ししています。

     

    また、医療従事者じゃない一般の人でも、ある程度勉強すればできるSTART法という基準があることを知っていただければと思います。災害時には全員を助けたいと思っても、それがかなわない状況が起こってきます。それを理解してほしいと思います。人間はどうしてもエゴがあるので、われ先にと病院に向かいたいという気持ちは、私もよく理解できます。ですが、どこかで基準を設けないと病院はパンクしてしまいます。そこで、実際にけがをされた方の中で、START法に従って急いで病院に行くべきかを判断してもらえると、被災した社会全体で助けられる人が増えていくと思います。

人間とは

  • ―水谷さんは、震災での経験をとおして、人間とはどういう存在だと思われますか。

     

    やはり人間って、考えたり、ものを食べたり、話したり、他の人とコミュニケーションを取ったりすることが楽しいじゃないですか。それって人間にしかできないことだと思うんです。そして、それこそ震災などでいきなり人生が途絶えてしまう人もいるわけです。残りの人生があと何年あるかなんてわかりませんが、せっかく生まれてきたのだから、人生を楽しんでいかないとな、ということを、ようやく最近思えてきたように感じます。

     

    震災直後には思わなかったのですが、震災の経験を伝えることもライフワークではないかと思うようになりました。なので、オファーがあったら、なるべく断らないようにしているんです。それは一人でも多く、あの時のことを理解して、助かる人が少しでも増えてくれたらなと思っているからです。本当にここ1、2年ですかね。自分がしたいことを楽しくやっていこうと思ったのは。自分が楽しかったらそれでいいし、それによって誰かが助かることになれば、なお良いことなのかなと思っています。そういう意味で、震災をきっかけに人生観が変わって、30年経ってさらにもう一段変わってきたかなという気がしますね。

     

     

    ―一昨年の能登の地震でも、少しでも早く復興をと、急かしてしまっているのではないかとも感じました。

     

    阪神・淡路大震災や東日本大震災も含めて思うのですが、すべてが元どおりに復興することはないと思います。街並みはきれいになりますし、復興と一応言っていますが、あの時の傷が癒えることはありません。

     

    きっと能登の人たちも、今が一番大変な時だと思います。私も10年目になるまで話せませんでしたし、姫路での看護師のあの一言がなかったら、こんな活動は辛すぎてしていないです。

     

    やはりその時の想いがずっと続いていくからこそ、寄り添っていかないといけないですよね。そして、そこに力を貸せるのが、それこそ神戸・淡路だと思っています。たぶん神戸の方たちも30年経って、それぞれ思っていることはあると思います。

     

    被災した時に、建物やライフラインなどの復興は、早くやってもらうに越したことはないと思いますが、こころのケアというか復興はすぐには難しいのかなと思います。

     

    でも、それでもみんな頑張って生きていますからね。生活の中で何か楽しいことを見つけてもらえたらいいなと思います。(了)

     

    一般社団法人 日本災害医学会

インタビューを終えて

水谷先生は、人間の善意がどのようにも通用しないトリアージの現場を経験された。そして、自らの苦悩に(ふた)をせず真向かいになって、今、その災害医療の経験と技術を多くの人たちに伝えている。目に涙を浮かべて言葉を(つむ)ぎ出しておられた先生の「楽しいことを見つけて」という一言に、日々の何げない出来事がどれだけ大切な瞬間であるかを気づかされた。そして、その日常は突如として地獄の様相を(てい)することもあるのだと。その時、私はどのような態度をとるのか。苦悩とともに歩む先生の姿から、「天命(てんめい)(やす)んじて人事(じんじ)()くす」という清沢満之の言葉が胸に浮かんだ。(教学研究所助手 (かじ) (てつ)()