―水谷先生は阪神・淡路大震災の際に震源地に近い兵庫県洲本市の兵庫県立淡路病院で、映像記録としては日本で初めてとされるトリアージの現場におられたということですが、トリアージとはどういうものなのでしょうか。
トリアージというのは、多数の傷病者や病人が出た時に、治療の優先順位を決めることです。しかし、震災があった30年前は、一般の医療者にトリアージという概念は普及していないという状況でした。なので、私たちが行っていたことがトリアージだということを、当時の私は知りませんでした。
―その時の水谷先生は、どういう役割をされていたんでしょう。
私はあの日、当直医でした。3年目の内科医で、他に5年目の整形外科の医師と1年目の研修医がいました。今でこそ医師は全ての科で研修しますが、当時は自分の専門しか研修しなかったので、私は内科しか知らない状況でした。
地震の直後は、病院のある洲本市内も静まりかえっていて、そんな大変なことが起きているとは考えてもいませんでした。しかしそのうちに、徐々に搬送されてくる患者が増えてきて、重傷者も増えて、救急外来の患者が入る場所がなくなってきました。
私は他の先生方と3人で心臓マッサージをしていて、始めてから30分はたっていました。普段の救急対応であれば、15分から20分心臓マッサージをして蘇生しなければやめる判断をします。でも、あの時はいつやめるべきなのか、まったく見当がつきませんでした。次から次へ患者は来る。でも、目の前の人を蘇生しないといけない。誰がいつどういう基準でやめるのかを、3年目の私は判断できませんでした。
そこに、後ろから外科部長の松田昌三先生がやってきて、何分ぐらいこの人を処置しているかを聞かれました。30分たっていると答えると、松田先生は私たちに「やめなさい」と言って、ご家族に患者さんの状況と処置の中止について説明されました。その時、正直、「え、心臓マッサージをやめていいんだ」と思いました。
―当時の現場では、松田先生が状況を聞いて、治療にかける時間や順番などを指示されていたということですか。
そうですね。今はトリアージタッグという緑・黄・赤・黒の4つの色分けがあって、歩ける人は緑、息をしていない人は黒といったかたちで赤からなどと治療の順番を決めていきます。その基準には性別や人種、障害の有無といった属性は入っていません。その時のシンプルで客観的な評価だけが判断の基準です。しかし、このタッグが統一されたのは、阪神・淡路大震災の後の話です。
当時の淡路病院では当然、トリアージタッグは存在せず、松田先生が判断されました。重傷者に対する治療をやめるだけではなく、軽傷者の外科系の外来への振りわけといった指示が始まりました。
あの状況で、トリアージができたのは、淡路病院の中で松田先生しかいなかっただろうと思います。松田先生が「やめなさい」などと指示してくれたのには、誰もがある意味、ほっとしていたと思います。やはり目の前に患者さんがいたら、当然、助けたいと思いますから。
―水谷先生は医師になる時に、自分も被災し、災害医療の現場でトリアージをする立場になると考えたことはありましたか。
いや、まったく考えていませんでした。震災に遭うまでは、患者さんを病気やけがから救っていくことが医師の使命だと考えていました。それが突然、災害医療の現場に立つことになって、当時、トリアージという基準がない中で、どこで処置をやめるかという判断には相当な葛藤がありました。淡路病院だけでなく、震災を経験した先生方はみんな、そういう状態にあったと思います。その決断で、私も含めトラウマになっている先生もおられると思います。皆さんが震災の話をなかなかされないのは、それが理由だと思うんです。この話をすると、私は今でも人前でぼろぼろ泣いてしまいます。だからこそ、現在、トリアージという一定の基準があるのは、大きなことだと思います。