機関紙『同朋新聞』

親鸞聖人が大切にされた浄土三部経の一つである『観無量寿経』序分には、どのようなことが書かれていて、“今”を生きる私たちに何を伝えているのでしょうか。「東本願寺 日曜講演」の講演録をもとに丁寧に紐解いてまいります。

第3回 王舎城の物語③

『観無量寿経』序分の意義を確かめていく際に、皆さまと共有させていただかなければならないことがあります。それが序分と差別問題についてです。序分の中に、母である()(だい)()()(にん)を殺害しようとするマガダ国の王子・()(じゃ)()を大臣が(いさ)めるという場面があることについて前回申し上げました。その諫める言葉の中にこのようにあります。

 

(おう)(いま)()の殺(せつ)(ぎゃく)()()さば、(せつ)()(しゅ)を汚してん。(しん)()くに(しの)びず。()(せん)()()なり。(よろ)しく(ここ)(じゅう)すべからず。

(『真宗聖典 第二版』99頁)

 

インドに古くから根づく身分制をカースト制とも言います。カースト制は、一つには四姓という種姓に基づく階級制があります。もう一つはジャーティという職能集団による区別があります。お釈迦さまの時代からある身分制は、四姓に基づく制度の方で、これが古代インドの身分制です。

 

四姓は、まず、バラモン(brāhmaṇa)という司祭階級が最上位・最清浄の身分です。そして、次のクシャトリヤ(kṣatriya)が王侯、武士階級です。さらに、ヴァイシャ(vaiśya)という庶民階級、シュードラ(śūdra)という隷属階級が続きます。このような生まれに基づく四つの身分がありました。

 

この四姓の中で、クシャトリヤが、先ほどの大臣の言葉にあった「(せつ)()(しゅ)」です。そして刹利種のほかにもう一つ出ていた身分が、「()(せん)()()なり」とある、「栴陀羅」です。旃陀羅は、四姓から外された身分の方々で、チャンダーラ(caṇḍāla)という古代インドの被差別民衆です。チャンダーラのほかにも被差別民衆はいましたけれども、このチャンダーラの人々が最も汚れた不浄なる者として差別されました。そしてチャンダーラは、四姓の中に入らない、身分外の存在であり、接触すべきでない存在(不可触民)とされていました(現在はカーストによる差別は禁止され、不可触民制は廃止されています)。

 

不浄や穢れという概念は、現在の私たちにはあまり身近でないかもしれません。文化人類学者のメアリ・ダグラスは、穢れとは、秩序づけと分類の副産物であると指摘しています(『汚穢と禁忌』・ちくま学芸文庫)。たとえば、自分の部屋で落ち着いて過ごしたいと思うと、そこに汚いゴミはあってほしくないでしょう。でも何がゴミかは人によって違います。それぞれの分類があって、ゴミとして分類して捨てることで、秩序ある落ち着く部屋を維持するのです。社会にもそうした秩序と分類があり、そこにあってはならないものが排除されるのです。

 

古代インドでは、チャンダーラは、最不浄として分類され、四姓で成り立つ社会外に排除されました。また最清浄のバラモンであっても、その身分を穢す行為をした者は、チャンダーラとして排除されるということが定められていました。つまり不浄なる存在の排除によって秩序を維持したのです。ここに古代インドの差別構造があります。

 

大臣の諫言(かんげん)に戻りましょう。阿闍世が韋提希を殺そうとした時に、大臣はそのような母を殺すという行いは、クシャトリヤの行うことではない、()(どう)であると諫めたのです。そしてそれを行うならば、クシャトリヤの種姓を汚してしまう、それはチャンダーラであると言ったのです。「()(せい)」と言いますけれども、このようなことを行えば、阿闍世はクシャトリヤとしての身分が奪われ、チャンダーラの身分に()ちるということです。こうした大臣の諫言によって、阿闍世は母殺しを思いとどまるのですが、ここには明確にチャンダーラに対する差別があるのです。

 

このチャンダーラに対する差別が、『観無量寿経』においていかなる意味をもつのか。ここに私は、穢土(えど)という凡夫の生き合う世界の本質的な問題が説かれていると考えています。そのことについては、序分を読み進めながらお話ししていきたいと思います。(続く)

鶴見 晃
鶴見 晃

(つるみ あきら)

同朋大学文学部仏教学科教授
岡崎教区第32組善正寺衆徒