

第3回
親鸞聖人が著された「正信偈」の言葉には、どのようなメッセージが込められているのでしょうか。英訳をとおして、一緒に味わっていきましょう。
ほうぞうぼさいんにじ ざいせじざいおうぶっしょ
英訳
When the bodhisattva Storehouse of the Dharma was in his causal stage
And together with the Buddha King Who Exists Naturally in the World,
和訳
法の蔵という菩薩が因の位にあって、
世に自然と存在している王の仏陀と共にいた時、
ここからの八句において親鸞は、『大無量寿経』の教説に基づいて、阿弥陀仏が仏に成る前に、本願を発した経緯と、その本願の内容について述べています。
今回の二句では、親鸞は、その本願を建立するきっかけとなった出会いに言及しています。遠い昔において、ある国王が「世自在王仏」という仏陀に出会い、深い感銘を受け、王座を捨てて、師と同様の覚りを得た仏陀になることを志すようになったと、『大無量寿経』で説かれています。その国王が、「法蔵」と名乗り、発願と修行の後、阿弥陀仏となったとも説かれています。
この出会いにおいて、世俗的な権力を握っていた国王が、「世自在王仏」のあり方に感服し、持っていた権力を投げ捨てて、「世に自在なるあり方」を求めるようになりました。
法蔵菩薩は、師のどういうあり方に感動し、どうして国王の権力を手放すことにしたのでしょうか。
この問いに答えるための大切なヒントが、「世自在王」という名にあります。
古代インドのサンスクリット語では、その名を「Lokeśvararāja」といいます。「自在」という言葉は、語幹の「īśvara」を漢訳したもので、「主」、「支配者」、「意のままにできる能力」といった意味があります。つまり「世自在王」という名は、「どんな世俗的な権威者より完全に意のままに世に処することのできる存在」という意味になります。
さらに仏典の漢訳者が翻訳を作った際、「īśvara」に「おのずからある」と読まれる文字「自在」を当てた点にも注意すべきです。世俗の権力者は、暴力でもって国や国民を意のままに動かすことができます。しかしそれは、大いなる因縁によって自ずから展開する生をあるがままに生きるあり方とは決定的に異なります。つまり「世自在」と呼ばれる仏陀には、いかなるものとも対立せず、全ての出来事を起こるがままに受け入れられる自由な境界が開かれています。
法蔵菩薩が、世に自ずから在る師の姿に心打たれたに違いありませんので、今回の訳では、「世自在」を「Exists Naturally in the World」にしました。
大谷大学文学部真宗学科准教授