機関紙『同朋新聞』

第10回 本願の信心 ―本願力について(三)

本願力(ほんがんりき)」とは、(どん)(らん)(だい)()が言われるように、願力(がんりき)(じょう)(じゅ)である阿弥陀如来の力ということです。しかしながらその力は、私たちには、まったく関係がないように思われています。この世のいわゆる力なら、たとえ自覚的ではなくとも、わかることがあります。たとえば重力です。なぜリンゴが木から落ちるのかと疑問を抱いた人が、見いだした力だとされています。重力は普段、私たちの意識には自覚されてはいません。けれどもあらゆる地球上の物体には、くまなく重力がかかっていて、宇宙に拡散していってしまわないはたらきをしているのです。

 

また、私たち人間の生命活動には、免疫力といわれる力がはたらいています。免疫力も、私たちの意識にあがることはありません。この力は、医学的な知見によって見いだされたものでした。この力をもし人が失うなら、細菌によってたちまちその人の生命は滅ぼされるでしょう。

 

このように平生は、私たちには意識することのできない無数の力が、与えられてはたらき続けているのです。仏教は、そういう無数の力をこの世の有限なる力であると見て、それらを超えた力として、「本願力」があると教えるのです。

 

このように、自覚されにくい力を自覚させることによって、人間の根本の闇を晴らすことになるというわけです。この根本の闇は、普通は意識上に自覚されてはいません。自分では自分の存在自体に付帯する闇を見ることはできないのです。先のたとえのように、意識されないのです。この闇の中で生命活動が成り立っているからです。けれども、そのことで実は生死の苦しみ・煩悩の苦悩を受けているわけです。そこに願力成就の力が、無碍(むげ)にはたらき続けると教えられる意味が出てくるのです。

 

(りゅう)(じゅ)()(さつ)の作とされている『十住(じゅうじゅう)毘婆(びば)沙論(しゃろん)()(ぎょう)(ぼん)では、たくさんの諸仏の名を念ずる行が出されていて、そのなかに阿弥陀如来の名もあるのですが、阿弥陀如来には本願がある、と指摘されています。その本願は『阿弥陀経』六方段(ろっぽうだん)では、無数の諸仏が経の真実であることを証明しており((せつ)(じょう)実言(じつごん))、善導(ぜんどう)大師はその意味を、諸仏が称名(しょうみょう)念仏を(しゅ)(じょう)に勧めているのだ、と言われるのです。それを釈迦・諸仏如来の(しゅっ)()本懐(ほんがい)であると、親鸞聖人は見ているのです。阿弥陀如来の本願には因果があり、願因(がんいん)の面を法蔵(ほうぞう)菩薩の本願として説き表し、(がん)()の面は、阿弥陀如来の仏身・仏土となるとともに、衆生の上に信心の因果を付与する力になるのだ、といただいているのです。

本多 弘之
本多 弘之

(ほんだ ひろゆき)

 

親鸞仏教センター所長

東京教区東京1組本龍寺住職