

他力の庭―東本願寺の庭師コラム―
第4回
庭は自然への畏敬の念から始まりました。では、庭を「自然」と捉えた時、そこにある「いのち」を食すと、何を受け取ることができるでしょうか。
先日、ある庭の鯉をいただきました。
泥吐きを終えた鯉に手を合わせ、その心臓を突く。三枚におろす途中で、鯉が跳ねました。頭を落としてもなお動き続けるその姿に、生命の凄まじさを見せつけられたのと同時に罪悪感が込み上げてきました。
焼くと、川魚特有の強い癖が香りました。一口運ぶと、豊かな脂が口中で溶け、力強い香りが鼻腔を抜けます。旨い―。
驚いたのは、いのちを奪った申し訳なさを、「悦び」が上回ったことです。これこそが「いのちを頂く」ということなのか。自分が人間であることを強く意識させられた瞬間でした。
両手に収まるほどの小ぶりな一匹でしたが、不思議とそれ以上何も欲さないほどの充足感があり、その後数日、身体の芯から力が湧くのを感じました。なぜ、あの小さな一匹にこれほどのエネルギーがあったのか。
私は、その要因は「癖」にあると感じています。現代は食べやすさを追求し、苦みや毒(薬効)といった「癖」を削ぎ落としてきました。その結果、私たちは胃袋が物理的に満たされるまで食べ続けても、どこか飢えている、そう感じます。
「癖」とは、その生き物が野生として生きた証、つまり生命力そのものです。「癖」のあるものを食し、少量で満たされる。それは、庭という小さな自然を介して、大きな「いのちの循環」につなぎ直される経験でした。
庭を介して、コントロールできない自然の理に触れてみる。
太田 陽介(植彌加藤造園株式会社)