昨年発災した「能登半島地震」以来、今なお厳しい環境におられます皆さまに、衷心よりお見舞いを申し上げます。
宗門として、息の長い支援を継続し、穏やかな日常を取り戻せますよう、力を尽くします。
さて、本年も宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講を、皆さまと共に有り難くお迎えさせていただきます。
憶えば宗祖は、誰のために『教行信証』を書き遺し、「帰命無量寿如来」の声を遺してくださったのでしょうか。
それは他でもない、私のためです。宗門に縁ある一人ひとりのためです。
その証しは、南無阿弥陀仏の声(御名)です。私たち一人ひとりが、今現に御名を聴いています。つまり、私たちには「南無阿弥陀仏の道」が既にして与えられているということです。
宗祖は、『教行信証』に
円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なり
(『教行信証』総序『真宗聖典 第二版』一五九頁)
と銘記されています。これは他に真実があるのではなく、「南無阿弥陀仏が真実」であるということです。
人は、意識や感覚を自分で改めることができません。それを仏陀は「凡夫」と教えてくださっています。私たち凡夫は、「気づかされる」ことがなければ改まらないのです。
その気づきは、仏法に生きる人との出あいによって賜ります。「人と仏法は不二である」という教語があります。浄土真宗は、人の姿に顕われるということです。
宗祖は『教行信証』に、
然るに、愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す
(『教行信証』後序『真宗聖典 第二版』四七四頁)
と銘記されています。それは自分の頭で考えた決意ではなく、師である法然上人の生き様やお姿といった「存在そのもの」に感動して、「真実の道標」に帰されたに違いありません。
このことは、教えが文字や教理だけで伝わるのではなく、教えに生きる人によって証しされ、伝承されてきたという事実です。
本年も期間中に、職員の説明を交えて聖人唯一のご真筆である『教行信証』坂東本(影印本)をご覧いただけます(『真宗』誌20頁参照)。
昨年も多くの方が参加してくださり、多くの方はスクリーンに坂東本が映った途端に合掌されます。私の前におられた方は「もったいないこっちゃ」と仰いました。きっと加賀の方でしょう。ものをいただいた時に使う言葉です。つまりその方は、坂東本を宗祖からいただいた宝物、「念仏申せ」と伝えてくれる、丁寧な丁寧な「お手紙」だと受けとめられたのです。
ご真筆を通して親鸞聖人に触れる。宗祖をこれほど身近に感じられることはありません。
真宗門徒の一年は、「報恩講に始まり、報恩講に終わる」と伝承されてきました。
さぁ、親鸞聖人に、念仏申される人々、御同朋に、あいに来てください。共に御名を呼びましょう。一人でも多くのご参拝を、心よりお待ちしております。
南無阿弥陀仏