ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘(石川県 光闡坊)
第3話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた)  [2007.1.]音声を聞く

おはようございます。人間といういのちの相(すがた)、それは阿弥陀如来によって、悲しみの存在として見出されているものであります。阿弥陀如来から我が名を称えよ、と呼びかけられているところに、我々はすでに阿弥陀如来によって受けとめられているのです。このことを手偏に耳三つを書くおさめるという字と取ると言う字を書いて摂取といいあらわします。特にこれを阿弥陀如来の摂取と申します。この受けとめ難き人生、受けとめ難き人の身を、我々にかわって引き受け取って名号、つまり如来自らの名告り、ナムアミダブツを与えて救う、それが阿弥陀如来であります。我々が呼びかけられ呼びさまされたところにその如来の声の中にはじめて我々自身を見出す。如来摂取の中にはじめて自らが受けとめられるのです。
私達はみな誰よりも自分がかわいいといいますが、無条件に自らのいのちを、いとおしんで生きることができるのは、赤ん坊のときぐらいではないでしょうか。その後は常にこの自分を、この人生をどう受けとっていったらいいのかと迷って来たのではないかと思います。動物と同じく類人猿といわれるころ、両手を大地について歩いていたとき、また、個人の発育から言えばはいはいしていたとき、そのときは、まだ大地と共につながりの世界を生きていたのです。そして大地から手を離して立ち上がり、理性をもって人間となったのです。しかし人間になったとたんに、今度はつながりの大地を失うことになってしまったのです。理性を持って人間となり人間となったが故につながりの大地から離れて、根本的に孤独と空しさを抱えることになったのです。
私達がさみしさを感じ空しさを感じ苦悩するのは、他のことではなく人間に生まれたからなのであります。大地を失った手がつながりを求めてやまず、何かをつかもうと、確かなものをつかもうとする。それが人間の手というものなのであります。人間の手が人間の孤独を表し、人間の手が人間の空しさを表しています。私達は手ごたえがほしいのです。手をとりあって生きたいのです。そうでなければ自分の人生を、そして、自分自身を受けとめて生きることが出来ません。
摂取という言葉が阿弥陀如来にありますが、摂取ということは実は本来人間の問題であります。自分を自分が引き受けてゆくことは、私達自身の問題なのです。その摂取が如来にあるのは人間がどうしても自らをそのまま無条件にいとおしんで受けとめることが出来ないからなのです。私達は自らの思いにかなった自分しか認めません。思いにかなわない自分は自分が許さないのです。耐えがたい苦しみ、苦悩を抱えどうにもできないそんな自分はひきうけられません。なんとかこの苦しみを克服しよう、受けとめようと人間は科学を発達させ医学や心理学などを、そして宗教を産みだして来ました。しかし、どれほど豊かになってもどれほど文化が発達しても、そして、どれほどいろんな宗教が世にあふれていても人間の苦悩が止むことがありません。人間は苦悩の存在であります。そしてその人間の抱える苦悩の方が、抱えている人間よりも深いのです。如来は人間であることを受けとめられずに苦しみ、迷いの中にいのちを終わるより他ない我らを悲しみの存在として見出し、大悲をもってすべてに呼びかけてくる。この呼びかけがすなわち摂取のはたらきであります。如来は我々を「凡夫よ」と呼び、自らは「ナムアミダブツ」と名告ってきます。私達が念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、どうしても自ら受けとめることの出来なかった自分を、呼んでいる如来の声の中にはじめて見出すのです。我とは汝という形でうけとめられるのです。阿弥陀如来が我々を見出し照らし出す智慧を光明、阿弥陀如来自らが名告りつづけ我々を呼びつづけるはたらきを名号といいますが、人間の摂取の問題に阿弥陀如来が光明名号をもってこたえている。それが阿弥陀如来の摂取であります。

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