ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘(石川県 光闡坊)
第4話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた)  [2007.2.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」人間といういのちの相(すがた)ということでお話をさせて頂いております。
人間といういのちの相、それは、関係を我(われ)として生きるいのちの相でもあります。前回、阿弥陀如来の摂取についてお話しましたが、阿弥陀如来は十方世界に生まれ死すもの、苦悩を抱えていのち生きるあらゆるものを衆生という言葉によって見出しています。この衆生と見出されてあることにおいて私達はすでに阿弥陀如来の眼差しの中に受けとめられているのです。摂取の縁は成就しているのです。しかし、そのことが本当に私達の上に利益(りやく)としてはたらきでるのは、名号の縁によって念仏申さんと思いたつ時です。阿弥陀如来が十方衆生よ、わが名を称えよ、と呼びかけてくる。その呼び声に呼びさまされうなずく時、私達は摂取の利益にあずかるのであります。阿弥陀如来によって呼びかけられていた衆生とは、すなわちこの私であったと、衆生が衆生であることが成就し、呼んだ阿弥陀如来が阿弥陀如来として成就するそれが、念仏の一念ということであります。はじめから阿弥陀如来と衆生があってその間に関係をつけるというのではなく、念仏の一念のところに阿弥陀如来と衆生がひらかれて来るのであります。
ちょっとした例えですが、「梅花早春を開く」という言葉がございます。梅花、梅の花ですが、梅の花が早春を開いているというのです。私達の日ごろの思いですと、春になって梅の花が咲いたと考えるのですが、ここでは、梅の花の方が春を開いたというのです。しかし、よくよく考えてみるとそうですね。梅の花やふきのとうを見て、私達はああもう春だなあと、咲いた花の上に春を感じるわけです。では、どうして梅は花を咲かせたかというと、春に呼ばれたからであります。もう春だぞ、さあ花を咲かせよと、春に呼ばれて梅の花は咲くのです。そして、その咲いた花の上に呼んだ春が満開である。梅花早春を開く、面白いことであります。
また、私のことを言いますと、私の子は私のことを「おとうさん」と呼んでくれます。私はそのことによっておとうさんであることができるのですが、子どもがどうして私をおとうさんと呼んでくれるのかといえば、私が自分で教えたのです。私が、子どもがまだ口のきけない頃からずっと見守り、抱っこしたりしてその子の名を呼びながら、「おとうさんはね」と自ら名告り、呼びかけつづけて来たのです。その名告り、呼びかけを子どもが受け取ってくれて「おとうさん」と呼びかえしてくれたのです。そのことで私はおとうさんであることができます。その子も私をお父さんと呼んではじめてそのおとうさんに受けとめられ、愛されている子でいることができるのです。この「おとうさん」という名は単なる名でなく関係をひらくはたらきであります。呼ぶものも応じるものもそこに関係がひらかれ自らを見出すはたらきであります。
呼ぶものは応えられてはじめて呼んだことが成就し、呼ばれたものは呼ばれることによって応えることができます。呼んでも応えるものがなかったらどれ程呼んでも呼んだことが意味をなしません。呼ぶということは応えられたときをまってはじめて真に成就するのです。阿弥陀如来が衆生を呼び、その呼び声にそれは私だと衆生が応じる。応じた衆生が呼んだ阿弥陀如来を証しする。このように呼応の関係は本質的には相応という言葉でおさえられるのです。
人間は関係を我(われ)として生きる存在であります。しかし、その関係において、最も苦しんでいるのもまた人間であります。その人間を救わんがために阿弥陀如来は名となったのであります。名号は阿弥陀如来につけられた名ではなく名となった如来、名号が如来そのものなのであります。

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