ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘(石川県 光闡坊)
第6話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた)  [2007.2.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」人間といういのちの相(すがた)ということでお話をさせていただいております。
私たちは仏法にふれ教えを聞くという形をとっていますが、私たちはなぜ仏法を聞くのでしょうか。はじめから仏教は素晴らしいものだと決めつけ、あるいは親鸞聖人を尊い人とはじめから決めていて、ただ、素晴らしい教え、よい教えとして聞いてしまっているのではないでしょうか。それではどうしても聞かねばならないという自らの聴聞の原点がはっきりしません。自らの根本的問いを失った聴聞は趣味教養の範囲を一歩も出ないもので救済と本質的に無関係なものです。聴聞の原点が確かめられなくてはなりません。
無意識的に仏教をよいものとし真宗を素晴らしいものとして聞いていくとき、私たちははじめからよい教えを聴く者、善人になっております。そして、いつのまにか自分は仏法を聞いておるもの、少しはわかったもの、念仏の教えを少しはいただいて少しはうなずけるようになったものになっていくのです。その聞いたところわかったところを喜びとしていくようになります。
しかし、親鸞聖人は厳しく言われます、その仏法者、後世者ぶりのものが仏法を滅ぼすのだと。仏法が滅びるのは外から攻撃されて滅ぶものではない、仏法をきいておるものが仏法を内側から滅ぼすのだとそう言われる。聞いた言葉を「私は聞いた、私はわかった、うなずくことが出来た」という形で握っていくその握った言葉を立てて、握った言葉で今度は自分を立てる、教えの言葉を権威化するのである、この態度を声を聞くと書いて声聞と呼ぶ。「私は聞いている」という個人的満足のところに腰を下ろす、それは同時に「他のものはわかっていない」という差別的信心の立場です。
すべてのものとともにという大乗の教えを聞きながら、それを声聞の態度で受けとっていく、そこに権威的教団ができる、そしてそれが分裂していく。実はこれはお釈迦様が亡くなってすぐに行われた経典編纂の第一回目の集会にはらんでいた問題です、集会の際、すでに悟りを得た阿羅漢500人に限って入場を許し、他の者は排除し、そしてお釈迦様の言葉を権威化した。そのところにすでにはらんでいた問題が声聞という聴聞の態度の問題です。この問題が次に第2回目の集会での根本分裂を引き起こし、その後の教団のさらなる分裂となって展開する。言葉によって開かれたにもかかわらず、その開かれた言葉を握っていく、このことによって言葉が閉じて権威化する。人間を超える言葉が人間の道具となる、そのとき仏法は滅びるのだと親鸞聖人は言われる。聴聞の原点を失ってしまったのです。
私たちが仏法を聞くのは仏法が素晴らしいからではないのです。こちらの方がどうしても聞かなくてはならない身を抱えているから聞くのです。親鸞聖人は「僧に非ず俗に非ず」といわれる。この非僧非俗とは、もはや仏法者ではない、仏法者であることをわれとしない。ただひとりの人間、迷いの人間、愚者、それをわれとするということです。これが聴聞の原点であります。原点は即ちすべてのものの帰着点でもあります。私たちを原点に引き戻すはたらきを帰命、南無と言いますが、阿弥陀如来によって私たちの上に南無がひらかれる、その時を往生を獲るというのであります。迷いの私が迷いの私を私として生きる時を得た、この目覚めこそが救済の内容であります。
聞くということが起こりうる存在、ひらかれるということが起こりうる存在、それが人間というものであります。如来は本願をいのちとし、そのいのちが今、あなたを生きている。本願がそこにおいてはたらく大切ないのちの相、それが人間といういのちの相なのであります。

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