ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多 雅人(東京都 蓮光寺)
第三回 真のよりどころの回復音声を聞く

 「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から、私たち人間そのものが問われ続けています。
 瓦礫と化した故郷で、なおそこに生き続けようとする人たち、また原発により故郷を離れなくてはならない状況のなかで、自分が育った故郷に必ずもどりたいと強く願う人たちを見るとき、人間にとって「生きる場」、特に「故郷」がいかに大切かを教えられます。
 ところで、仏教は、あらゆるものはすべて移り変わっていくのが道理だと説きます。生きる場を大切にしていても、震災や原発事故にかぎらず、あらゆる場もやがて移り変わっていってしまうのであれば、何か虚しさすら感じてしまいますが、私たちが大切にしている生きる場を包んで、それを超える場を指し示しているのが仏教なのです。
 大震災の悲しい状況を越えて生きようとする人々のなかに、ある17歳の女性の生きざまを知りました。家族全員が、そして家も津波に流されてしまいました。ところが、悲しみに覆われながらも彼女の眼は生き生きとしていました。彼女は、手に行方不明のお母さんのブレスレットをしながら、瓦礫の下敷きになった父親のいちご農園を見つめ、「高校を卒業したら、ここでいちご農園をやりたい」と明るく語っていました。彼女は無条件に苦悩の現実を受け止め、立ち上がっていたのです。彼女の思いから言えば絶望以外の何ものでもないのですが、その意識を超えて、どこかで彼女は両親から自分の存在をまるごと受け止められながら、生き抜いてほしいという願いを感じ取ったのでしょう。彼女が願うのではなく、願われているはたらきに導かれているのです。そういうことが人間の上におこるのですね。親鸞聖人は『歎異抄』のなかで「人間の思いを超えた阿弥陀如来の本願の大いなるはたらきによって、念仏もうすこころがおこるときに、迷い多き身のままに、阿弥陀如来の無限なる慈悲につつまれて、どんなことがあっても自分の尊さを失わないで生きる身となる」とおっしゃっていることは、まさにこのことなのでしょう。彼女のなかに両親のかたちをとって如来の本願力がはたらいているのだと感じずにはおれませんでした。
 苦悩と同時に人間の思いよりもっと深いところに、いのちの叫び、願いがはたらいていて、これこそが人間の本心、本音だと見抜いたのが如来の智慧の眼です。「その本願に目覚めよ」と呼びかけてくる世界が「浄土」として、人間の究極の「生きる場」として提示されているのではないでしょうか。安田理深という先生が浄土を「存在の故郷」と表現されているのは、浄土こそが、人間の思いを翻して生き抜く「真のよりどころ」だからです。この願いの世界はけっして移り変わるものではないのです。
 これは17歳の女性の話だけではないのです。被災によって、心に大きな傷をうけたストレスによるPTSDに悩まされる人たちも、自分でいのちを絶っていく人たちにも、そして現代に生きる誰においても、苦悩の根源に願いが脈々と生きているのです。人間であるならば根源的に誰もが願い、願われているという点において、どんな人間も尊いと言えるのではないでしょうか。存在の尊さを現代は忘れてしまったのです。
 親鸞聖人は「生きる場」は必ず移り変わっていくから本当の場ではないと切って捨てていくようなことはおっしゃいません。親鸞聖人は、「浄土」の功徳にふれることを通して、大切な自分の生きる場に帰って生きていく道を切り開いてくださったのです。迷いがなくなるのではなく、担っていく力をいただくのです。
 苦悩に向かい合い、どうにもならない絶望を感じつつも、この苦悩と同時に、人間の存在の根源から、その苦悩を突き破っていくような深い願いに突き動かされて立ち上がっていくことがおこるのです。そういう願いを私たち一人ひとりがどう自覚できるかの一点です。そこに本願が念仏の呼び声となってはたらく「浄土」を真のよりどころとせよ、と呼びかけられてきたのです。

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