ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多 雅人(東京都 蓮光寺)
第五回 「愚かさ」の自覚音声を聞く

 「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から、私たち人間そのものが問われ続けています。
 私の寺には竹藪があり、毎年、近くの保育園児が自然とたわむれることを楽しみながら筍堀りに来ます。ところが、一昨年、業者に測定してもらったところ、数値に異常が検出されたことから、食べることを断念しました。これは明らかに原発事故によるものです。
 私は、掘っても捨てるしかない筍を見ながら、原発を恨みました。「何ていうことをしてくれたのだ」と怒りが込みあがってきたのです。しかし、次の瞬間、知らず知らずのうちに経済的豊かさをよしとし、原発を支えてきたのは私自身ではなかったかとの思いがよぎりました。私もまさしく加害者の一人だったのです。さらに原発を批判し、電力会社を批判している私が、もし電力会社の幹部だったら同じことが言えたであろうかとの思いにいたって、茫然としました。立場が違えば言うこともちがってしまう、つまり人間の立てた善悪の基準は当てにならないのです。現代は、人間の善悪の基準が深く問われている時代です。私たちは知らず知らずのうちに善悪についてなんでも判断できると思い込んで生きているのではないでしょうか。
 善悪の基準を終始徹底できないのが人間存在の悲しさなのでしょう。「わかったつもり」になって生きている自分の愚かさに気づかされました。その私の姿を仏教では罪悪深重の凡夫というのです。人間そのものが問われることなく、原発対策だけで終わるならば、人間は原発に代わる新たな問題を引き起こしかねないということを痛感させられました。
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞聖人の言葉があります。人間は縁によっては何を考え、何をしでかすかわからない存在、つまり「業縁存在」であるというのです。誤解のないように言いますが、縁次第だから何をしてもいいのではありません。起こしてしまった過ちを絶対に忘れてはなりません。要は「存在」を問題にしているのです。業縁を生きる人間存在の悲しみや痛みが「愚かさ」の自覚を促します。
 実は、親鸞聖人もそうだったのです。法然上人の吉水の念仏教団が弾圧され、親鸞聖人は越後に流されました。もちろん親鸞聖人は朝廷権力が仏法を弾圧することについては怒りをお持ちになっています。しかし、この時に親鸞聖人はご自分の法名「釈親鸞」に「愚禿」、つまり「愚か」という言葉を付けられました。仏弟子として名告る名前、法名の内実は愚かさの自覚にあると宣言されたのです。
 普通なら、「朝廷を許せない」という気持ち一色になります。ところが、怒っている親鸞聖人がなぜ自分のことを愚かだと自覚されたのでしょうか。それは、朝廷の念仏を弾圧する心が、自分の中にもあるということを、弾圧を縁として思い知らされたからです。これは朝廷を許すという話ではないのです。朝廷が弾圧するような心が自分の中にもあるということを、いわゆる法難、つまり念仏の弾圧という形を通して教えられたのです。人間存在の深い悲しみです。そのことに気づかされることによって、朝廷の人も弾圧された親鸞聖人も、共に救われていく道がどこにあるだろうかということが課題となっていかれたのです。
 原発の問題にもどれば、電力会社の社員も、被害を受けた人も、被害を受けていない人も、同じように救われていく道がなければ、それは立場によって切り捨てられていくことになるのではないでしょうか。私は電力会社を評価しているのではありません。私が電力会社の社員だったら同じことをしているのではないかという悲しみがあるのです。どこまでも自分を善として相手を批判していくのです。
 自分を見ずに他にクレームをつける時代です。現代は“一億総クレーマー”ではないでしょうか。「愚かさ」を自覚すると、真に現実と真向かいになって生きる道を新たに歩き始めます。そのことに眼が開かれるかどうかではないでしょうか。

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