ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多 雅人(東京都 蓮光寺)
第四回 「問い」に生きる音声を聞く

 「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から、私たち人間そのものが問われ続けています。
 人間が深く問われるのは、私たちにとって間に合うと思っていたものが、まったく間に合わなかった時にしかありません。私ごとですが、私なりに親鸞聖人の教えを聞いてきました。しかし、テレビであの大津波が押し寄せ、人も家も根こそぎ持っていってしまい、故郷が壊滅的状況になってしまった光景を目の当たりにして、今まで聞いてきた教え、救いということがわからなくなってしまったのです。教えを聞く生活を続けていながら、自分が聞いてきたものは一体何だったのか、まったく間に合わなくなってしまったのです。
 それは、どこかで教えをわかったつもりになっていた自分が問い返されたといってもいいでしょう。「わかったつもり」とは、仏教では明るく無いと書いて「無明」といいます。そうやって、わかったつもりになって握りしめた教えは、教えではなくなっていくのです。苦悩のなかから仏教が生まれたという原点に帰ってみるならば、苦悩の現実から「問われる」という形を通して、初めて教えが聞こえてくるのでしょう。「問われる」ということは自分が問題になるということです。私は答えを求め、それを握りしめ、問いに生きることを忘れていたのです。自分が不在だったのです。これこそが人間の知恵の闇だと教えられました。
 現代は「わかったつもり」がはびこっている社会です。答えが独り歩きしていて、問いを持たない社会になってしまったといっても過言ではありません。「原発は安全だ」とわかったつもりになって答えとして握りしめるのも、私が親鸞聖人の教えをにぎりしめるのも同じ問題を抱えているように思います。要するに、外にある答えに自分を合わせて自分を保とうとするのです。しかし、保てるうちはいいのですが、いつまでも保てるものではありません。なぜなら何も足さない、何も引かない等身大の自分ではないからです。今回の原発事故の最も深い原因もそこにあるのではないでしょうか。それは原発事故に限ったことではなく、私たちの生活空間のいたるところで見受けられます。そこに現代人の生きづらさがあるのではないでしようか。
 親鸞聖人は、「念仏は、浄土という世界に往くための原因なのか、また地獄という世界に堕ちる行為なのか、私はまったくわかりません」とおっしゃっています。ちょっとびっくりするような言葉ですが、とても深い内容を持っています。つまり、親鸞聖人は、念仏を答えにして固定化して、それに合わせて自分としていこうとすることは、自分を見失うことだということを痛いほど身に沁みて感じておられたのです。教えを答えとするのではなく、現実の苦悩を通して、教えの言葉が響いてくる、聞こえてくることで初めて自分が受け止められるとおっしゃるのです。教えも自分も出遇うものだったのです。そもそも宗教、ことに仏教とは、「生きるとは何か」「人間とは何か」という人間存在の問いを深めていくもので、これこそ人間の根源的問いであり、究極的課題です。つまり、答えを出して誤魔化すのではなく、問いこそを大切にし、苦悩する人間に寄り添ってきたのです。答えを与える宗教は、むしろ人間を縛っていくものにすぎないのです。また、人間を問うはずの宗教が、人間の欲望に利用される宗教に転落していってしまっている現状は、至るところで見受けられます。
 問いに生きた親鸞聖人の姿勢には、人間を見つめることを忘れて、他にふりまわされながら生きざるを得ない現代に生きる私たちにとって、かけがえのない尊い自分に帰っていく道すじが示されているように思います。
 それは、けっして他にふりまわされない人間になることではありません。むしろ他にふりまわされながら生きざるを得ないなかに、それを問い返す眼、執着しない生き方が与えられてくるのだと思います。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回