ラジオ放送「東本願寺の時間」

津垣 慶哉(福岡県正應寺)
第3話 仏教徒 [2010.3.]音声を聞く

おはようございます。私たちの本山である京都、真宗本廟東本願寺で親鸞聖人の750回の御遠忌法要が予定されていますが、その日まであと一年となりました。法要に向けて全国各地で気運が高まっているこの時期、本願寺第八代の蓮如上人がおっしゃった、真宗が盛んであるというのは人が多く集まることばかりではないんだ、一人の人が信心の喜びに会うことなんだ、というお言葉を肝に銘じていきたいと思います。
仏教の教えをより所にして生きる人を仏教徒といいます。では仏教の教えをより所にして生きるとはどういうことなのでしょうか。もうずいぶん前になりますが、以前、京都大谷大学の教授でありました舟橋一哉先生のご本を読んでいるときに教えられたことをヒントにしながら今日のお話を進めていきたいと思います。
まず私たちは毎日の生活の中で、朝昼晩と一日三度の食事をします。同じように仏教を身につけるためには、毎日仏さまにおまいりするのが仏教徒の日課であります。少し前ですが「近頃は仏さまにおまいりをするという習慣がなくなってきましたね」とある女性と話していたら、「ウチなんか家族はだれもおまいりしません。お猿さんが家の周りをうろうろしてね、いなくなったと思ったら仏壇の前にジッと座っとる。寂しいもんです」と笑っていました。
話を戻します。食事が私たちの体の栄養であるなら、仏教は心の栄養です。食事はただむやみに摂取すればいいというわけではありませんね。好き嫌いだけで選ぶわけにもいかないし、体に害を与えるものはもってのほかです。仏教も同じなんです。
食物は口から入れて歯でかみ砕きます。歯でかむというところを、仏教の教えを頭で理解するという段階にあてはめてみます。歯でかみ砕かれた食物は胃に送られ、胃液によって溶かされていきます。これらの過程を通して食物は体に吸収され消化されて栄養となり、血(血液)となって、体の健康を保ち、またエネルギーとなります。
仏教の方に話を戻しますと、教えは耳から入ります。その言葉を頭で理解することはとても大切なことですが、それだけでは栄養にはなりません。古い言葉で「腑に落ちる」という言葉がありますが、理解したことが腑に落ちて初めて身につくのでしょう。腑は臓腑の腑で内臓です。どんなに明晰に理解しても栄養になるためには腑に落ちることが必要なんです。「あなたのいうことはよくわかる、だけどな・・・」と首をかしげることはありませんか。「言われることはそのとおりだけど、何かひっかかるな・・」というときには、どこかで消化不良を起こしているのではないでしょうか。
そうやって取り入れた仏教の教えが栄養分となったとき、生じてくるのを「智」といいます。体の栄養となる血は血液ですが、仏教の智は知るの下に日とかきます。私たちの持ち合わせの知識の知と区別して、仏さまからいただいた智慧はこのようにあらわします。そしてこの智が私たちの中に生じたとき、これが心のエネルギーとなる、そこに仏教徒としての新たな人生が始まるのです。
つまり仏さまの智慧を得るということが仏教徒の目的であり証である、それを私たち真宗にご縁をいただいたものは信心を得るという言葉で言ってきました。
さてそれでは智慧を得る、つまり仏教徒としての新たな人生が始まるといいましたが、そこにどういう人生が開かれてくるのか、それを次回に考えてみたいと思います。

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