ラジオ放送「東本願寺の時間」

津垣 慶哉(福岡県正應寺)
第5話 信心 [2010.3.]音声を聞く

おはようございます。日本全国には仏教寺院がたくさんあります。その数を数えた人に依ればコンビニの数よりも多いそうです。そんなに多くのお寺があるのに最近では多くのお寺は現代という時代にそぐわなくなった、まるで風景の一部みたいなもんだ、などという声を聞くようになりました。私もお寺を預かるものとして、そういう厳しい声にも耳を傾けていかねばと心しておりますが、ここではあえて別の角度から少し申し上げたいことがあります。時代にそぐわないといわれるお寺が、今なおこの社会にあり続けていることについて考えてみたいのです。
私たちは毎日の生活の中で、自分の力ではどうすることもできない出来事にしばしば遭遇します。そんな時、「お金ならいくらでも用意するので、なんとか助けてください」と訴えたり、「自分が代われるものなら代わってやりたい」と悲痛な思いで願ったりするとき、私たちの持つお金や名誉や権力ではどうにもならない無力さに、うちひしがれるのではないでしょうか。
古来仏教が説いてきた生老病死、生まれる、老いる、病む、死ぬ、についての四つの苦しみとは、実はそのことを言い当てたものです。自分の人生なのにその生を自分で選べない苦しみ、若さや健康を謳歌したいのに老いや病がしのびよってくる、あるいは老いや病が身にふりかかって来るほどに若さや健康を願わずにはおれない心が起こってくる、それが苦しみの正体なのです。
自分の力でどうすることもできない問題にぶつかったとき、人は何かに救いを求めずにはおれないものです。昔から伝えられてきた数知れない迷信ごとも、あるいは現代人の好む占いなどもその対処法の一つといえるように思います。どんなに中味がないようにみえても、また周りから見るとどんなにしらじらしく思えてもすがりつこうとします。次々に新しい装いをもって現代的な迷信がはびこっているのです。そこには人間の奥深くに漂う不安の影を見るようです。
自分の力で対処できる苦しみももちろんありますが、力の及ばないどうすることもできない問題にぶつかったとき、人は何かに頼らずにはおれない、祈らずにはおれない、その時何を頼りにするか。おぼれる者ワラをもつかむ、ということわざがあります。切羽詰まったときは身近にあるものをつかむことになるのでしょう。しかしワラでは救いになりません。何かをつかまずにはおれないのが人間なんですが、間違ったものをつかんでしまうと苦しみは倍増します。
親鸞聖人があらわされたお念仏の教えには易しさと難しさの両面があります。易しさはお念仏一つにきわまれりというもので、いつでもどこでもだれにでも成り立つ教えであるという面です。そして難しさもお念仏一つにきわまれりというそこにあります。お念仏によって、いったい何が真実で何が真実ではないのか、その際を見極めるということがあります。
人間にとって仏教は大切だとか、信心することは良いことだというのは、これまでの長い伝統の中で培われてきたものでありましょうが、実は問題はそこから先にあります。大切だというその仏教がどういう教えなのか、どういう信心なのかを見極めていくということです。
今日は世界中で宗教の名のもとに争いが絶えません。宗教は民族や国を超えて人と人を出会わせる大きな力にもなりますが、他方では宗教の名によって人と人、国と国を引き裂く力にもなるのです。真実の教えとしての真宗を聞き続けていくことの大切さがそこにあると改めて思います。

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