ラジオ放送「東本願寺の時間」

津垣 慶哉(福岡県正應寺)
第4話 利益 [2010.3.]音声を聞く

おはようございます。今日若い人たちの中で仏教という言葉の響きの中に、抹香臭いとかウサン臭いという印象をもっておられる人も少なくないようです。お寺におまいりをしているのはお年寄りが多いとか、仏教はお葬式のイメージがつきまとうとか、死後の世界とか、さまざまなことが折り重なって仏教という言葉があるのでしょう。お坊さんの服装も現代風とはいえません。そういうイメージをぬぐいさろうと、さまざまな試みもなされているようです。しかし仏教がいかにも現代にマッチするということを私は求めません。現代人の見ようとしないところ、避けようとするところをこそ仏教は見ているからであります。
また仏教という言葉には、ご利益信仰といった意味合いもあります。困った時の神頼みといいますが、お願いごとをしてかなえてもらう。それが思い通りにいけば「ご利益があった」といいます。人間の欲望の数が増えれば増えるほどご利益信仰は盛んになってくるのかもしれません。
そういう中、浄土真宗の親鸞聖人の教えは現世のご利益は言わないんだ、ということがいわれます。だからお念仏の教えは現代の流れに沿うことができないのかもしれません。
そこで、ここではあえて浄土真宗のご利益とは何だろうか、ということを考えてみたいと思います。実は、親鸞聖人もご利益ということをいっておられます。言葉は同じですが、意味するところは大きく異なっています。
先ほどから紹介していますご利益は、私たちが自分の願いを聞いてもらう、かなえてもらうという信仰のかたちをとりますが、それに対して、そういうことをたのむ必要のない人生が開かれてきた、というのが浄土真宗の説くご利益です。私たちの人生はままならないものです。自分の思い通りにいくときもありますし、思いがけないことや思いに反することも起こってきます。しかし、どのような人生が待ち受けていても、そこから始められる、立ち上がっていける人生の智慧を教えていただくということだと思います。
先日このようなことが話題になったとき、ある人が「お前は坊さんだからそんなことを言うんだ。オレたちはそんなに真剣に考えているわけじゃないよ。まあ気休めみたいなもんだ」と軽くいなされました。確かに今はやりの占いなども多くの人はそういう態度で接しているようにも見受けられます。しかし私は、いやいやそうでもないよ、と思うのです。
これは別の知人の話ですが、赤ん坊が生まれた時に名前の画数を占ってもらったという話をしてくれました。「どうして占ってもらうの?」とわけをたずねると、「まあ気休めなんだけど、参考までに看てもらっただけだ」と言います。私はそのことが理解できず更にたずねると彼は、「もしこの子が大きくなって良いことにめぐりあったら、ああ、あのとき看てもらっててよかったと思えるだろ。もし悪いことに出くわしても看てもらったからこの程度で済んだと思える。だからどちらにしても占ってもらってよかったことになる」と説明してくれました。よくわかる話ではありますが、ほんのちょっとした気休めが、知らず知らずのうちにその人のものの見方や考え方となっていくんだな、とその時思いました。
親鸞聖人は、他の何かに依存する心は、常に真実を求める心を妨げるのだと仰っておられます。真実を求める心とは、この世やこの世を生きる私の無常性をより処とする生き方ということができます。無常とは、常がない。すべて時間の上で移り変わるということです。そのことについて次回引き続き申し上げたいと思います。

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