ラジオ放送「東本願寺の時間」

津垣 慶哉(福岡県 正應寺)
第6話 悪人正機 [2010.3.]音声を聞く

おはようございます。親鸞聖人の教えは「本願を信じ念仏申さば仏になる」というお言葉に集約されます。仏とは、仏さまのことです、これは真宗にとってとても大切なお言葉なんですが、現代人の私たちには「仏になる」ということも「信じる」ということも「念仏もうす」ということも実感としては「なかなかよくわからないなあ」ということがあるのではないでしょうか。
そこでこのお言葉を考えていくとき、あることがらについて、人間の目から見る見方と仏さまの目から見る見方では大きく世界の見え方が違ってくるんですよ、という視点から考えてみたいと思います。
親鸞聖人の教えを示す有名なお言葉に、悪人正機ということがあります。正機は正しいという字に機会の機と書きます。悪人を救うことを目的とする本願の教えということです。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」に始まる一文が『歎異抄』という書物に記されています。世間の人たちは悪人でさえも往生して仏になれるのなら善人はもういうまでもないというのだが、阿弥陀さまの目から見ると、それは違う。善人でさえ往生して仏になれるのなら悪人はいうまでもない、というのです。言葉だけ見ると善人と悪人が入れ替わっているだけなんですが、ここには親鸞聖人の教えの核心があります。心が善いから往生できるというのは、私たちが常識的に考える日ごろの心ですが、それこそが自分をあてにして本願を疑うことになるのだと親鸞聖人は仰っておられます。この教えから導かれてくる今日の問題を次に述べてみます。
私たちは日ごろの生活の中で家庭や職場や社会においていろいろな人と関わりを持ち、また、それゆえにしばしば対立することがあります。そして対立するときには、いつもどちらが正しくてどちらが間違いか、という善と悪の問題が出てきます。そんな時、自分は絶対に間違っていないと言い張って、自らの善に固執する人よりも、常に自分は間違っているかもしれない、または立場が替われば間違うかもしれない、と受け止められる人の方がずっと浄土に近いということでしょうか。
現代は民主主義だといって話しあいということが大切にされているのですが、話し合いはされてもいつも最後は多数決となるとき、これが民主主義なんだろうかと私は首をかしげたくなります。少数意見の尊重という言葉はありますが、終わってみれば多数の力で少数意見は無視されます。「尊重、尊重といってもいつまでも話しあうわけにはいかないので、どこかでケリをつけるしかない」ということが常套句であります。ではそういうとき、どうすれば良いのでしょうか。
それは、大変難しい問題だと思います。それでもただ言えることは、多数であることがそのまま正しいということには決してならないということであります。今は多数だけど、それがいつどのように変わるかわからない、またそうであるからこそ、少数意見というものが大きな意味をもつのです。
親鸞聖人がお書きになった『教行信証』という書物の一番最後に記された『華厳経』というお経のお言葉は謎めいています。親鸞聖人が念仏の教えの先輩として仰がれた源信僧都の『往生要集』という書物によりながらその意味をたずねていくと、次のようになります。「私が道を得たならばあなたを導いていこう。でももしあなたが道を得たならどうか私を導いていただきたい。こうしてさとりにいたるまでお互いに師弟となろう。」ここには阿弥陀仏を仰ぐ私たち愚かな人間の生き方が端的に示されています。
これで終わります。どうもありがとうございました。

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