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酒井 義一 (東京都 存明寺)
第4回 殺意のとなりにいる親鸞さん [2010.11.]音声を聞く

 おはようございます。今朝は「殺意のとなりにいる親鸞さん」というテーマでお話をさせていただきます。
 最近、小さなこどもを親が虐待したり、育児を放棄して死に至らしめる事件が目につきます。こういうニュースを見聞きすると、「本来、親になってはいけない人間が親になってしまった」などと、私たちは思いがちです。
 しかし、本当にそうでしょうか。私はそれは違うと思うのです。加害者の一人は、子どもが生まれてきた時には、「言葉にならない程嬉しかった」と、述べていたそうです。
 しかし、つれあいと離婚し、ふるさとを離れ、ひとりで働きに出るようになると、やがて「子どもさえいなければ」と思うようになり、結果的に死に到らせてしまったといいます。もちろん、その人のした行為は、到底容認できるものではありません。 
 加害者を批判するのは簡単なことです。しかし、これは、その加害者だけの問題ではないように思うのです。背景には様々なことがあるのではないでしょうか。たとえば今の時代、若い父親にせよ、母親にせよ、ひとりで子どもを養うのは大変なことです。親と同居することが珍しくなり、若い親をサポートする人がまわりにいなくなったという現代の生活環境もあります。あるいは暴力や虐待は連鎖するということが指摘されています。虐待を受けて育った人間は、大きくなって、自らが虐待を繰り返してしまうことが多いというのです。力で相手を押さえつけてもいいのだということを、体が学んでしまうからです。また、あるいは一度暴力や虐待をしてしまうと、人間は弱いもので、歯止めが利かなくなり、ますますエスカレートする、ということも指摘されています。こうした社会的な要因や、人間のかかえる闇などが、この事件には大きく影響していると思うのです。
  本当に問題にすべきことは、なぜこのような事件が起きたのか、ということを明らかにすること。そして、人を殺してしまった人間の救いは、いったいどこにあるのか、ということを問い尋ねていくことではないでしょうか。
  浄土真宗の宗祖・親鸞聖人だったら、暴力や育児放棄でわが子を死に至らしめてしまった親についてどう言われるでしょうか。おそらく「あんな人間は失格だ」などとは言われないと思うのです。
 親鸞聖人の言葉を集めた『歎異抄』の第13章には、次のような言葉があります。
 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」 私の心がよいから私は人を殺さないのではない。縁がないから殺さないだけであって、縁が熟せば、人は百人でも千人でも殺すかもしれない。人は縁によってどのような行いをもしてしまう、そういう存在なのだ、と親鸞聖人は指摘されています。
 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が、「人を殺してはいけない」と諭すのではなく、なんとおどろくべきことに、「縁さえ熟せば私も人を殺してしまうかもしれない」と告白されるのです。ここに、人間存在の持つ闇を、深い悲しみをもってじっと見つめている親鸞聖人がおられます。
 殺意というものは、私たちの日常に見え隠れしています。ふとした日常で「あんな奴、消えてしまえ」という、殺意に似た気持ちを抱くことは、何も特別なことではありません。そんなとき親鸞聖人が現れて、「私もそうなのだ」と寄り添ってくださっているのではないかと思うのです。人間が抱く殺意のとなりには親鸞聖人がはたらくべき世界がある。殺意のとなりに人間のすがたを悲しみをもって見つめる親鸞聖人がおられる。
 人は時に殺意を懐くものです。でもその殺意のとなりには、親鸞聖人がいる。親鸞聖人がはたらくべき世界がある。それが、いよいよ私たちが明らかにしたい世界です。

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