49.人間とは何か?

淺田 玄(九州教区)

◆はじめに

 人類史上、核兵器が実戦使用された最後の土地である長崎に生を享けて30年余りが過ぎました。私が歩んできたこれまでの人生の中でどれだけこの問題に向き合えただろうか、または目を背けてきただろうか、そんなことをぼんやりと考えていた最中、ロシアのウクライナ侵攻が始まりました。また、つい最近のニュースでは、ロシアのプーチン大統領が公の場で、「戦争」という言葉を初めて使い、武力衝突の激化が予想される現状まで進んでしまいました。そのことに伴ってかは分かりませんが、中国による台湾への進行が現実味を帯びてきたり、北朝鮮によるミサイル発射の実験が多発するなど、世界は武力を行使する事がさも当たり前のような世の中へと変貌を遂げようとしているような気がしてなりません。

 ですが、そのようなことが起ころうともいつもと何ら変わりない日常に身を置いている私達にとって、この「戦争」という問題はなかなか意識しにくい問題なのではないでしょうか。私もその中の一人であると自覚しております。しかし、この世界が混沌としている今だからこそ、戦争を知らない世代の私達が何を思うか、改めて考えてみたいと思います。

◆被爆された方から教えられた「戦争」

 日本の子どもたちが「戦争」ということに初めて触れるのはだいたい小学校に上がってくらいからではないでしょうか。私が通っていた小学校でも、1年生から6年生まで平和学習という時間が設けられ、原爆投下日である8月9日へ向けて学びを深めていきます。私はその初めての平和学習の時間で「原爆」とか「戦争」とか「世界大戦」といった、フィクションではなく本当にあった歴史を知るわけです。まだ、数か月前までは保育園に通っていた子どもにとって、この事実を知ることはとてもショッキングな出来事でした。

 人が人を殺すということに漠然とした怖さのようなものはありましたが、それ以上に「核兵器」という強大な力に恐怖感を覚えた事のほうが大きかった印象です。そう思えたのは、先生方が原爆投下後の資料などをパネル展示してくれたり、平和学習用のビデオなどを見せてくれたりと様々な方法で学習していたのですが、一番影響しているのは、被爆者の方の生(なま)の語りを聞かせていただいたことが大きいでしょう。

 今となってはとても貴重な体験だったと思います。2022年現在、被爆者の数はどんどん少なくなっており、当時のことを語れる方が少なくなっているからです。

 その体験談を聞かせていただいた時のことは今でも鮮明に覚えています。原爆の計り知れない破壊力、体に浴びた放射熱の熱さ、焼け野原となった街の惨状、飲み水を求め汚染されていることなど分からずに川の水を飲んで亡くなっていった人々、どれをとっても「恐ろしい」という言葉しか浮かばない、そんな感情でした。しかし、その方が結びに言われた言葉が、私にとってとても大切だなと思える言葉でした。

 「一度戦争という状態になってしまえば殺す殺されるの世界です。そこに個人の意思や思いは反映されません。何より国対国の争いが戦争ではありますが、結局のところ一般市民にまで被害が及びます。それが戦争なんです。」

 この言葉に私は人間の本質を見た様な気がしました。

 思い返せば人間の歴史は争いの歴史と言っても過言ではないでしょう。歴史の折々で人は争い、奪い、殺戮を繰り返してきました。どんなに時代が移り変わろうとも、その本質は未だ変わってないというのが現状でしょう。いや、変わることはできないのかもしれません。しかし、そんな愚かな私達はそれを仕方のないものとして過ごしていくしかないのでしょうか。

 私はそれもまた違うと思うのです。私達人間は、確かに凶悪性を持ち合わせている生き物です。しかし、それを踏みとどまる「心」、「精神」そういったものを兼ね備えています。それにより自らを顧み、反省し、軌道を変えることができるのも私達だと思いたいのです。

 私はよく人間を刀に例えます。刀は刃が剥き出しだと一振りでいろんなものを傷つけてしまいます。しかし刀には刀身の部分をおさめる鞘というものがあります。鞘は刃の部分を劣化から防ぐという役割もありますが、何より安全に刀を持ち運びするという役割があります。人間にはその凶悪性を包み込む鞘となる部分が必要なのではないでしょうか。

 人間を武器で例えるのはどうなのかというご指摘もあるでしょうが、私達人間は生まれながらにして多くの命を奪い、その奪った命を(食べ物として)いただく事によって生命を維持しているわけです。戦争となれば土地を奪い、他人の命を奪い、国というものすら奪っていく。そういう意味では奪っていくことしかできない愚かで浅ましい生き物に見えます。

◆罪深い人間がそこにいる

 とは言いつつも、人間に「悔い改める」ということが果たして可能なのでしょうか。これは答えのない議論なのかもしれません。もし、正しいとされる道へ戻れるとするのであれば、戦争は起こらないと思うのです。同じ過ちを繰り返すからこそ人間である、私はそうも教えられています。

 親鸞という方は、「煩悩具足の凡夫」という言葉で自分自身の存在を受け止められています。煩悩具足(煩悩が十分に備わっている)の凡夫(愚かで凡庸な人間)と表現された背景には、どこまでいっても尽きることのない欲まみれの人間のありさまに気付かされたということがあったのでしょう。浄土真宗の教えを学んでいくにあたって、覚えやすい言葉でありながら、本当に頷くことは難しい言葉だと私は思っています。

 この言葉を踏まえて今回の私の話に置き換えてみますと、どれだけ戦争のない世界を理想と掲げても、争いが止むことはありません。それは、様々な思惑が形となっているからで、争うことを止められない人間の欲があるからでしょう。逆にその本質に触れたことで止まない争いを止めるために声を上げ続けている方々が生まれてきたことも事実です。

 私の受け止めになりますが、被爆された先人達が戦争経験の無い私達に何を伝えたかったのかと考えると、“核兵器による被害の恐ろしさ”が一番ではないと思うのです。「欲まみれで罪深い私達人間がそこにはいるんですよ。」と、常に私に教え続けているように感じるのです。

 この先どのような時代になっていくのか誰もわかりませんが、次の世代にこの問題について何を伝えていくか。それぞれ思いはあることかとおもいます。何か私の文章で考える材料になれば幸いです。

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