51.私とお仏壇のものがたり

蓮容 健(名古屋教区)

■お仏壇を通して会ったことのない先祖と出会う

 私は不思議なご縁をいただき、真宗大谷派に所属する寺院の住職を勤めさせていただいています。私はそれほど信心深くもない会社勤めの家庭で育ちましたが、そのような私が、お寺で生活させていただくことになろうとは夢にも思っていませんでした。しかし今では私が生まれる前から「お念仏の教えに出遇ってほしい」という願いがかけられてこの世に生を受けていたのだと思うようになりました。

 浄土真宗の門徒は、お仏壇のことを「お内仏」といただき、その前で親鸞聖人がお書きになられた『正信偈』をお勤めして日々の暮らしを送ってきました。私の幼い頃、実家で『正信偈』が読まれることはありませんでしたが、祖父母の代まではお勤めがされていたことを後で知ることとなります。

 私が祖父母と「出会った」のは幼少の頃、我が家に仏壇が届けられたことから始まります。仏壇が届けられた日、なんだかはしゃいで喜んでいたような記憶が残っています。父は、幼い私に向かって、「おまえのお祖父ちゃん、お祖母ちゃん。そしておまえの叔父さんは、東京大空襲(1945年3月10日・祖父母の命日とされる)で亡くなったんだ。遺体も見つかっていないから本当のことはわからないけど、恐らく焼夷弾で焼かれたんだと思う。熱かっただろうな。苦しかっただろうな。だから、せめて新鮮なお水をお供えしようね」と、目に涙をためて私に語っていたことが印象に残っています。

 仏壇が届けられたのは、終戦から25年以上も経った頃のことです。当時の父は40代半ばだったと思います。父はお仏壇に向かうことによって、ようやく祖父母の死を受け入れたのではないかと思っています。16歳で志願して兵隊となった父は17歳で終戦を迎えました。同世代の戦友が戦地に送られ戦死する中、罪悪感を抱えながらも生きて帰れた喜びは大きかったことでしょう。しかし、生家は焼かれ親兄弟も行方不明。しかし生きることに必死で、葬式もせぬまま生きてきたのでしょう。戦争が終わって四半世紀以上が経過し、ようやく泣くことができた。仏壇に向かうことによって、はじめて安心して泣くことができたのではないかと思っています。そして、父の後ろ姿を通して、私は祖父母と「出会い」、戦争というものを知ったのです。

 以来、通知表や卒業証書を置いたり、旅行の前には留守と旅行中の安全をお願いしたりと、生前には会ったことのない祖父母へ報告やお願いごとをすることを通して、亡き祖父母と会話をしてきたのです。そして、会ったことのない祖父母に親しみを感じる一方で、自分の悪事を見透かされているようで、何となく恐くもあり、大事にしなければならない存在として感じていたように思います。

■お仏壇の前に座ってどこを見ますか

 今は僧侶となり、お仏壇は死者を祀る場所ではなく「お内仏」といただくことを知りました。浄土真宗の焼香作法では、まず「御本尊を仰ぎ見る」と教えられます。お仏壇の前に座り仰ぎ見ますと、中央に、ご本尊「阿弥陀如来」の立像が掲げられています。私自身のお仏壇との出会いを振り返れば、今までは死者のことばかりを気にしてご本尊のことを忘れていた自分に気付かされます。そうです、仏壇は「先祖」壇ではなく、あくまでも「仏」壇なのです。しかし、阿弥陀仏の「決してあなたを見捨てない」という誓願に出会わせてくれたのは、亡き人を通してでした。そして、ただ死んでいくだけの人生に、生きとし生きるものが皆、尊びあう世界(浄土)へ向かっていく人生があることに導いてくださったのは、やはり亡き人だったのです。私に阿弥陀の世界にご縁をつくってくださった方、そのような方のことを諸仏といいます。

■先祖壇、仏壇、お内仏

 故人を慕う思いの向こうに、阿弥陀仏をご本尊とする生き方があった。真宗門徒は、伝統として故人を偲びつつ、ご本尊の前に座って、釈尊のお説教(お経)を聞き、親鸞聖人が勧めてくださる信心のうた(正信偈・和讃)を繰り返し読誦し「南無阿弥陀仏」のいわれを確かめてきたのです。そして、日常生活の中で起こる様々な不安や悩み悲しみを受け止めつつ、単に死へと向かっていく人生に、浄土へ向かう人生があることに気づいてきたのです。

 因みに、これは大人になってから聞かされた話しなのですが、和菓子屋を営んでいた祖父母は、「なんまんだぶつ なんまんだぶつ」と、お念仏を称えながら仕込み作業をしていたそうです。その「なんまんだぶつ」が、今、私にまで届いている。その声は、親鸞聖人、釈尊が伝えてくださった声であり、無数の念仏者によって伝えられてきたものだったのです。

■阿弥陀仏との出会い

 私のお預かりしている寺院の地域では、亡くなられた方の命日にあわせ、僧侶が各ご家庭のお仏壇にお参りさせていただき読経する習慣があります。月に1度、ご縁をいただいた家に伺い、お仏壇の前で読経し、読経の後で様々なお話をします。どのご家庭でも、様々な悩み、悲しみ、苦しみ、不安を抱えておられます。一見順風満帆で問題のなさそうなご家庭でも、必ず老病死をはじめとした様々な問題が浮上してきます。そのような時に、お仏壇の前に座り「南無阿弥陀仏」と称えられるなら、こんなにも幸いなことはありません。それは、その人の人生にちゃんと阿弥陀仏という仏さまが寄り添ってくださっていることを示しているからです。そして阿弥陀仏との出会いを促してくださった亡き方が諸仏となって、あなたを包んでくださっているのです。

 「南無阿弥陀仏」の声を聞くとき、先祖壇が仏壇となり、そして「お内仏」といただいていくことができるのではないでしょうか。皆さんにとってもお仏壇を通してのものがたりがきっとあるはずです。あらためてお仏壇への向き合い方を確かめてみてください。自身の死生観や生き方を見つめる機会となるのではないでしょうか。

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